まるでカミュの「太陽が眩しかったから」の世界だ――長崎県佐世保市で発生した女子高生殺人事件から1週間、事件の背景をめぐる報道は迷走を続けている。生徒同士のトラブル、教育のあり方、父親の再婚――さまざまな「犯行原因」「動機」が取りざたされてきたが、いずれも「決め手」にならないばかりか、「誤報」となったものもある。
「自分の身に何がおこったかわかってないであろう娘がただただかわいそう」
被害生徒の父親は2014年8月2日、手記の中でこう綴ったが、事件を前にした日本社会もまた、 困惑を隠せないでいる。
事件の「原因」探しは迷走続き
当初、まず世間が注目したのは、加害生徒と被害生徒の関係であり、2人の間に何らかのトラブルがあったのでは、という点だった。
「2人の間のもめ事には全く気付かなかった」
事件翌日の朝日新聞7月28日付朝刊では、2人の同級生間で交わされたという上記のようなLINEメッセージが紹介されていた。
やはり佐世保市で2004年発生した小6女子児童殺人事件では、同級生同士の些細ないさかいが事件の発端となった。「『普通の同級生』とみられていた2人の間に何が起こったのか」との文章からもわかるとおり、初期の報道では、同級生同士の人間関係に何らかのもつれがあったのでは、との見方が先行していた。
しかし、2人の間のトラブルは確認されず。そうなると、今度は「教育」にスポットが当てられた。
2004年の事件以降、佐世保市では「命の教育」として、生命の大切さなどを説く教育を実施していた。これを受けて読売新聞の29日付朝刊では、「『命の教育』実らぬ現場」「深く考えさせなかった」との見出しで、こうした教育が実効性を持っていなかったのでは、と責任を問うている。他のメディアも教育内容の形骸化に言及するなど、現場への批判が相次いだ。
だがこれも、女子生徒が「人を殺してみたかった」という趣旨の供述をしていることなどが伝えられると、「教育」という一般論だけで語るのは限度があるということになり、むしろ女子生徒自身の際立った特異性や、その生育環境へと関心が移った。