東日本大震災から3年が過ぎた。被災地の復興の歩みは遅く、原発事故の影響で今も避難生活を余儀なくされている被災者は少なくない。
それでも復興に向けて前を向き、日々の生活のなかで懸命の努力を続けている人たちがいる。各地で、その姿を追った。
不便な場所に住む人々の生活再建にフォーカス
津波で甚大な被害を受けた宮城県沿岸部。石巻市の東側に位置する牡鹿半島や女川、雄勝湾周辺は交通の便が良いとはいえず、大規模な支援は遅れがちだった。点在していた小さな漁村は流され、震災後の人口流出は著しい。
このような場所に、震災当初から救いの手を差し伸べたのが山形県在住の山口スティーブさんだ。米国出身、スタンフォード大で修士号取得後に日本の商社に就職した。日本語を流暢に話し、日本人女性と結婚して山形の建設会社社長を継いだが、その後旅行業に転じた。
山口さんの親戚は、宮城県気仙沼の大島に住む。震災後すぐに居所を探し、10日後にようやく避難所にいると確認できたが、同じように悲惨な境遇に置かれた人たちを放っておけないと思った。それが、支援活動のきっかけだ。
いま手がけているのは、ボランティアツアーの運営と「仮設村プロジェクト」のふたつ。いずれも被災者が本当に欲しているものを提供するのが目的だ。震災から2か月後、牡鹿半島の鮎川浜に出向いて、被災者からの相談に耳を傾けた。そこで、行政の手が届きにくい不便な場所に住む人々の生活再建にフォーカスしようと決めたという。
ボランティアツアーは、旅行業者としてのノウハウが生きた。震災直後は、個人でボランティアに行きたくても現地事情に疎いとなかなか難しかった。むろん被災者は、助けを待っている。こうした両者を橋渡ししたのだ。のりの養殖が盛んな東松島市宮戸島では、業者が養殖用のいかだを津波で流され途方にくれていた。少人数で大量のいかだを手作業で組み上げるのは不可能だ。そこで、東京を中心に毎週末15~20人のボランティアを募集、現地でいかだづくりに精を出した。何度も行く人も増え、2011、12年で、のり養殖は本格生産再開に至ったという。2013年には、牡鹿半島でカキの養殖に必要な作業の手伝いを始めた。
活動開始当初は、行政の壁にぶつかった。がれきの山や絶え間ない余震で被災地が危険な状態だったのは確かだが、民間のボランティア団体だけで奥地まで入るのを許可しない自治体もあったそうだ。沿岸部の漁師たちから「生活さえ立て直せたら、漁に戻れるのに」という声を聞いた。「支援へのニーズはいくらでもあるのに」と歯がゆい思いを何度も経験したと振り返る。