きのう(1月31日)の朝、関係する東京のNGOのスタッフがわが家に顔を出した。震災直後からいわきで支援活動を展開している。そのための宿舎が近所にある。川内村(=写真 2010年7月25日撮影)へ行ってくるという。郡山市にある応急仮設住宅も訪ねるという。
ん、川内? 新聞・テレビが報じていたのを思い出す。川内村はこの日、「帰村宣言」から満2年を迎えたのだ。全村避難から間もなく3年。約2800人の村民のうち、週4日以上村の自宅で過ごす人は半数を超えた。川内の現状を把握しようということなのだろう。
村はわがふるさと(田村市常葉町)の隣にある。ともに阿武隈高地の主峰・大滝根山をいただく。いわきから実家への往復には「往」と「復」のどちらか、大滝根山を越えるルートか谷沿いの国道288号を利用する。つまり、必ず川内は通る。3・11後はなおさらそうしている。
ずいぶん前になる。創立して間もないいわき地域学會が、総力を挙げて『川内村史』を手がけた。昼間は自分の仕事があるアフターファイブの研究者の集団だ。休日になると、たびたび川内村へ出かけ、村役場の担当者のIさんの案内で調査を繰り返した。私もそのはしくれとして、江戸時代の俳人佐久間喜鳥を軸にした 俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを担当した。
大型連休のある日、Iさんの親族の家に案内された。旧家だ。炭火が赤々とおこる囲炉裏を囲んで、山菜の"フルコース"を楽しんだ。葉ワサビの粕漬け、ウド のじゅうねん(エゴマ)あえ、シドケ(モミジガサ)のおひたし、タラの芽のてんぷら、フキとタケノコの油いためが出た。仕上げはミョウガタケ(ミョウガの 新芽)と豆腐の味噌汁。囲炉裏端にはイワナとヤマメの串焼き、そして炭火の上の網わたしには生シイタケ。
そうそう、川内はキノコの名産地でもあった。『川内村史・資料篇』から幕末のキノコの値段がわかる。
シイタケとコウタケを江戸へ出荷していた。安政7(1860)年3月の相場は、シイタケが1両当たり1貫550匁、コウタケが2貫400匁と、シイタケの 方が高い。慶応2(1866)年12月になると、これが3~2倍にはね上がる。シイタケは1両当たり中級品500匁、シシタケ(コウタケ)が1貫400匁。マツタケは大小5本で100文と考えられない安さだった。
川内は、ほかの阿武隈の山里がそうであるように、山野の恵みが豊かな村である。NGOのスタッフと川内の話をしたら、川内で食べた山菜料理の数々が思い浮かんだ。それを過去の話にしてはいけない。そのための「帰村宣言」でもあろう。
夕方には、その川内村で養鶏業を営む風見正博さんが鶏卵を持ってきた。雪は?ないという。ノーマルタイヤでも実家への往復ができそうだ。が、ここは我慢して、もうちょっと暖かくなるのを待とう。
(タカじい)
タカじい
「出身は阿武隈高地、入身はいわき市」と思い定めているジャーナリスト。 ケツメイシの「ドライブ」と焼酎の「田苑」を愛し、江戸時代後期の俳諧研究と地ネギ(三春ネギ)のルーツ調べが趣味の団塊男です。週末には夏井川渓谷で家庭菜園と山菜・キノコ採りを楽しんでいます。
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