富岡町へ行くと、「帰還困難区域」を示す立て看を目にする(=写真)。その北隣、大熊町は面積の9割以上が帰還困難区域になっている。
富岡からいわきに避難中の女性がわが家へお茶飲みに来て、カミサンに東京への移住を告げた。子どものすまいの近くに家を見つけたのだという。自宅は帰還困難区域にある。建物も傷んでいない。なのに、住めない、帰れない。震災・原発事故から間もなく3年。いつまでも避難者のままではいられない、ということなのだろう。
近所の国道6号沿いに大熊から避難し、開業した整骨院がある。カミサンがときどき、腰をもんでもらいに行く。4月には閉院して茨城県結城市に引っ越すという。町の広報紙「おおくま」1月号にインタビュー記事が載る。いわきでの事業継続を模索したが、整復師などの資格を取得できる教育機関がなく、人材確保が難しい。自分の年齢を考えると今が新たな挑戦ができるタイムリミットと判断したそうだ。
広報紙からは各地に定住する町民の姿がうかがえる。会津若松市の応急仮設住宅から同市内に店舗兼自宅を求めて移り住んだ理容師一家がいる。水戸市に住む夫婦がいる。震災後、娘のいる宇都宮市のアパートで約2年間暮らしたが、隣の生活音に耐えられず、望郷の念も募って、いわき市内に家を探した。手ごろな物件がなかったために、宇都宮市と大熊町の中間、水戸市にマンションを購入して生活の拠点にしたのだという。
いわきは不動産バブルが続く。土地も、建物も入手が困難になってきた。いきおい、周辺にそれを求める動きが波及しているのだろう。高齢者には「孫に会える距離」も移住先を決める材料のひとつになっているのかもしれない。
「三日三月三年(みっかみつきさんねん)」という言葉がある。我慢のたとえに使われるが、このごろ耳に入ってくるのは「もう3年だから」という避難者の決断の声だ。それが、若い世代はいわきに家を建てた、中古住宅を買い求めた――といった話につながっていく。
先祖代々の田畑をかかえる農家と違って、サラリーマンや商人、職人などは縛られるものが少ない分、よそに代替地を求めやすい、という面はあろう。「もう3年だから」。帰還をあきらめ、一歩前へ踏み出そうとする人々の心中を思うと、言葉もない。
(タカじい)
タカじい
「出身は阿武隈高地、入身はいわき市」と思い定めているジャーナリスト。 ケツメイシの「ドライブ」と焼酎の「田苑」を愛し、江戸時代後期の俳諧研究と地ネギ(三春ネギ)のルーツ調べが趣味の団塊男です。週末には夏井川渓谷で家庭菜園と山菜・キノコ採りを楽しんでいます。
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