「いわき支援」の同級会 それぞれの3・11【福島発】

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   昭和39(1964)年3月に現田村市常葉町の中学校を卒業した。20歳のときから5年ごとに同級会を開いている。10回目、65歳の今年は20~21日、いわき市常磐のスパリゾートハワイアンズで開かれた。ハワイアンズに一泊し、翌日、小名浜のアクアマリンふくしま(=写真)を見学した。全体の5分の1にあたる40人余が参加した。


   5年前の同級会で、「次はいわき開催」が決まっていた。いわきに住む人間が事務局を引き受けるべきなのだが、東日本大震災が発生した。結局、いつものように常葉町の同級生が準備を進めた。結果的にいわき支援の同級会になった。


   3・11には首都圏も"帰宅難民"が出るほどの揺れに見舞われた。と同時に、ふるさとを遠く離れている同級生は、実家や親類、同級生の安否が気になったことだろう。そのときどうだったのか、が話題になった。


   いわき勢の3・11は――。四倉町内で店を開いているA子さん「駐車場まで津波が押し寄せてきた」。滑津川河口近くに家があるB子さん「川の堤防から逆流してきた水があふれだしたので、怖くなって逃げた」。双葉郡からふるさとの近くに原発避難をした人間もいるという。幸い、同級生のなかに犠牲者はいなかった。


   いわき民報社発行の『東日本大震災特別報道写真集/保存版 3・11あの日を忘れない いわきの記憶』を持参し、アクアマリンへのバスの中で見てもらった。ハワイアンズ、小名浜港、アクアマリン、街並み……。見た目はきれいになったが、あのときは甚大な被害に遭ったのだ。


   昭和31(1956)年4月17日夜の強風下、「常葉大火」で焼けだされた同級生が私を含め十数人いる。小学2年に進級したばかりで町の中心部が焼け野原になった。ずっと向こうまで何もない"異空間"と化した。ガレキが撤去された津波被災地について、「常葉の大火と同じだと思えばいい」という私の言葉にうなずく同級生がいた。


   その同級生は、妻が伊豆大島の元町出身だ。今度の土石流で知人が亡くなったという。私たちは"災害列島"で暮らしていることを実感しないではいられなかった。

(タカじい)



タカじい
「出身は阿武隈高地、入身はいわき市」と思い定めているジャーナリスト。 ケツメイシの「ドライブ」と焼酎の「田苑」を愛し、江戸時代後期の俳諧研究と地ネギ(三春ネギ)のルーツ調べが趣味の団塊男です。週末には夏井川渓谷で家庭菜園と山菜・キノコ採りを楽しんでいます。
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