長嶋茂雄の背番号を「15」にしたかった男 川上哲治とはどんな人物だったのか

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   不滅の巨人V9を指揮した川上哲治さんが亡くなった。選手、監督として日本の野球界をリードした最大の功労者で、昭和のプロ野球の大きな歴史が終わったともいえる。どんな野球人だったのか。

選手として、監督として巨人を常勝軍団にした大功労者

   「背番号16」「赤バット」「弾丸ライナー」――。 選手時代の川上はいくつものキャッチフレーズがあった。巨人の4番バッターは戦前、戦後を通じて球界を背負い、野球少年のあこがれだった。首位打者5度、本塁打王2度、打点王3度。MVPには3度選ばれている。最初に2,000安打を記録した打者でもある。

   名セリフがある。「ボールが止まって見えた」――。これは練習に練習を重ねた末につかんだバットマンの極意だった。

   長嶋茂雄がデビューした1958年、日本シリーズを最後に引退した。後継者の出現を見届けたからだった。

   監督になったのは61年。この年、日本一になる。勝利数では2位中日より下回ったのだが、引き分け数が多いことでセ・リーグ優勝。長嶋は大活躍したものの、王はまだよちよち歩きで、戦力は不安だらけだった。それを克服するのに、雨中の多摩川グラウンドでボールを火で乾かしながら打ち込むなど、異常な練習をした。

   65年から9年連続日本一の座に就いた。いわゆるV9である。

   ごつい感じとは裏腹にアイデアマンだった。大リーグの野球を本格的に取り入れた最初の監督だった。「ドジャース戦法」はV9の原動力となり、その巨人野球が各球団の手本となった。選手時代に米国キャンプに派遣されたとき、練習はコーチにまかせ、監督はゴルフに興じることを見て、カルチャーショックを受けたことが背景にある。

   現在ではどのチームにも広報担当がいるが、最初にその制度を導入したのも川上だった。当時は「新聞係」といい、専門家を置いた。練習をスムーズに行うため、グラウンドにロープを張って報道陣との間に境を作った。「哲のカーテン」とソ連のスターリンと重ね合わせて批判を受けたが、ひるむことはなかった。

   また、若手選手が住む合宿の寮長に栄養士の資格を取らせ、練習に耐えられる体力作りを求めた。寮長は元選手で、いかつい男がホープの面倒をみる光景はほほえましかった。

   長嶋が入団してからしばらくは、自分の運転する車に乗せて球場を行き来した。車中で4番打者の心掛けなどを話して聞かせた。長嶋の背番号は3だったが、実は川上は15を球団に提案している。それは沢村栄治の14、自分の16、そしてその間の数字を付けさせることで、3人とも野球殿堂入りすることを読んでいたからだった。

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