手段が目的化してしまうことはよくあることだ。ある目的を実現するために選択したはずの手段なのに、その手段を実行すること自体が目的化してしまう。大槌町と接する釜石市鵜住居(うのすまい)町で起きた震災時の悲劇は、その典型的な例だった。
東日本大震災は、私が朝日新聞北上支局に在籍する時に起きた。2年間、岩手県北上市から大槌町に取材で通った。車で片道2時間半。大槌町に近づくたびに、津波で破壊され、残骸をさらす建物が、いやでも目に入ってきた。津波で水没した鵜住居地区防災センター。大槌町での取材と並行し、センターの取材を進めた。センター内や建物の裏で見つかった遺体は68人。しかし、遺族会の調べで、200人を超える住民がセンターに避難し、犠牲になったことが分かった。
センターは明治三陸津波の浸水地域で、釜石市の津波避難区域内にあり、津波に襲われた時の正式の避難場所ではなかった。正式の避難場所は近くの寺の裏山と、神社の境内。しかし、地元では、センターが利用しやすい低地にあったため、「避難訓練の時だけの避難場所」とすることを考えた。釜石市は、この方針を認め、訓練時に限った避難場所であることを住民に周知しなかった。訓練をするたびに、寺や神社よりも、センターへの避難者が増えていった。
防災センターという名前もまぎらわしかった。公民館や市の出張所の機能を併せ持つ集会所だったが、住民に、避難すれば安全、という誤解を与えてしまった。震災時、訓練の時と同じように、お寺に逃げて助かった小林進さん(79)、庸子さん(75)夫妻は、こう証言する。「訓練の時にお寺に逃げたら、ご近所の人に、センターは頑丈だし暖かくて楽だよ。なぜセンターに逃げないの、と不思議な顔をされた」
菊池通幸さん(66)は、長男辰弥さん(37)の妻琴美さん(当時34)と、その子涼斗(すずと)君(同6歳)をセンター内で亡くした。十王舘和美さん(33)は、夫高治さん(同30)と長男優豪(ゆうごう)君(同6歳)、長女羽美(うみ)ちゃん(同3歳)を亡くした。川崎身延さん(76)と、長男哲央(のりお)さん(42)は、センター内で九死に一生を得た。2階の天井間際まで浸水し、わずかに空いた隙間で息をつき助かった。
生と死を分けた3家族に共通していたのは、センターに避難すれば身の安全は守られるという認識だった。妻の郁子さん(同63歳)を亡くした三浦芳男さん(68)は「避難訓練が訓練のための訓練になっていた」と指摘する。十王舘和美さんは「今でも、センターが無かったら助かったと思う。無念です」と話す。
釜石市が設置した検証委員会は今年、8月、「市の責任は重い」と結論づけた。
災害時、訓練した以上の行動を起こすことは難しい。訓練は、できるだけ本番に近い形で実施し、事前に問題点を洗い出しておくことが必要だろう。鵜住居の悲劇は、改めて、防災訓練の重要性を訴えかけている。
(大槌町総合政策課・但木汎)
連載【岩手・大槌町から】
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