病室からツイッターで高校野球への想いをぶつけ続けた女子マネジャーのツイートが、反響を広げている。病状は一進一退を繰り返したが、2013年10月17日に帰らぬ人になった。生前に関係者に対するお礼の言葉をツイッターに保存しており、それを死後に姉がツイート。1000回近くリツイート(転送)されている。
野球への想いを伝えたいと、高校野球専門誌への寄稿も決まっていた。原稿が完成することはなかったが、何らかの形でマネジャーの足あとが誌面に紹介される見通しだ。
治療やめれば「来年の春迎えられない」
ツイートの主は、名古屋市内にある高校野球部の女子マネジャー、伊藤絢(いとう・あや)さん。悪性リンパ腫と診断され、入院して4か月が経った2013年8月にアカウントが開設された。最初は夏の高校野球の応援ツイートが多かったが、次第に野球への想いを募らせるようになる。
「何か泣けてきた。野球の事も恋愛の事も何か切なくなってきて涙が止まらん。私の未来はあるよね?もう、今の私嫌だよー。グランド行きたい。泥だらけのユニホームを着てる姿が見たい。野球大好きや。夢と白球を追いかける姿好きや!」(8月28日)
9月23日には、さい帯血移植を受けることを決断し、その約1週間後には移植を受けた。
「治療せんくて今の時間大切にするのもひとつの選択肢やって言われたけど、もしそうなったら来年の春は迎えれんって言われた。私のなかではそんな考えないけどね。頑張って治すだけ!ガンには負けん!グラウンド戻る!」
だが、病状は一進一退。9月28日と10月14日の2度にわたって意識がなくなり、姉が、
「どうか、皆さんのパワーを妹に送ってあげてください」
と代理でツイートをする場面もあった。
本人によるツイートも、
「私ね、完治は難しいって言われた。きっとグラウンドにも戻れないと思う」(10月15日)
「足の指の爪が全部はがれた。。移植の拒絶反応らしい。さっそく看護師さんが手慣れた様子でガーゼ保護してくれた!」(10月16日)
といった厳しい内容が続いた。
最期のツイートは「報知高校野球に掲載する原稿書こ!」
そんな中でも、伊藤さんは「書く」ことに情熱を燃やしていた。9月11日のツイートでは、
「私、決めた!将来の夢、看護師になろうと思ってたけど記者になる!スポーツ報知の高校野球専門の記者♪キラキラした青春を野球に懸ける球児を追いかけたい(^^)球児の素顔も、想いも、書きたい。将来の私はカメラとメモを持って走る☆なれるか分かんないけど野球が好きなんだ!」
と、記者を目指すことを決意。「報知高校野球」に寄稿することも決まった。
「私が書いた物が全国の人に見られるんやぁーって思ったらスゴいことだよね。私の事を知ってもらって頑張ろうって思ってくれたらありがたいなぁ。命って大事なんだよ。生きてるってスゴいことなんだよ。野球って私の人生そのもの。早くグラウンドに戻りたいよー。キャッチボールしたい」(10月3日)
「私の書いた言葉で、野球は勝ち負けじゃないって、素敵な仲間のこと、支えてくれる家族、指導してくれる監督、毎日使うグラウンドや道具など。。大好きな野球ができる事に感謝しよう。病室にいるマネージャーが野球人に伝えたいことを書きます!伝わったらいいなぁ。よろしくお願いします!!」(10月7日)
本人による最後のツイートは、10月17日朝7時2分。
「報知高校野球に掲載する原稿書こ!まだ半分くらいしか書けてない。。なかなか進まない。。」
そのおよそ8時間後の15時27分に、伊藤さんは息を引き取った。16歳だった。
ツイッターに保存されていたツイートが、死後に姉の手によって公開された。内容は、
「野球部のみんなへ。こんな私をマネージャーとして受け入れてくれてありがとう。みんなのサポートできて幸せでした。みんなとしたキャッチボール楽しかったよ。グラウンドで頑張るみんなを見ているのが私の力になった。たくさんのお見舞いもありがとう。みんなのマネージャーになれてとても幸せでした」
といった関係者への感謝の言葉だ。これらのツイートは「まとめ」などを通じて反響を広げており、すでに「まとめ」には「いいね!」が1300以上ついている。
「報知高校野球」編集部によると、未完の原稿は、何らかの形で誌面で紹介できるように遺族と調整を進めるという。13年12月上旬発売の14年1月号で掲載される見通しだ。