前回に取り上げた大槌町の「こども夢ハウスおおつち」にかかわっている岩手県北上市内の復元・納棺師笹原留似子(るいこ)さん(41)は、震災直後、被災地の三陸沿岸で、遺体を復元し、納棺するボランティア活動に奔走してきた。子どもたちの遊び場づくりは、子どもたちが復元の対象だったり、家族を亡くした子どもたちの悲しみを目の当たりにしたりしたことがきっかけだった。
私は、震災当時、朝日新聞北上支局の記者として、笹原さんの活動を知り、取材を続けてきた。笹原さんは300人以上の遺体の復元を手掛け、遺族と悲しみを分かち合ってきた。死者の尊厳、人間の尊厳といったものに光を当てた笹原さんの当時の活動を振り返り、2回にわたり報告したい。
笹原さんは札幌市で納棺師をし、2007年に両親が住む北上市に移り住んだ。株式会社「桜」を設立し、復元、納棺の仕事をする傍ら、岩手県内の福祉、医療関係者とともに、遺族の悲しみを癒すグリーフケアの輪を広げようとしていたところに震災が起きた。
北上市は岩手県の内陸部にあって、沿岸部と比べれば、震災の影響は軽微だった。ボランティア組織「つなげるつながる委員会」を立ち上げ、内陸部から車で片道2時間の距離を往復し、沿岸部に支援物資を運んだ。沿岸部は北上市から遠く離れ、知人は少なく、本来の復元、納棺の仕事は念頭になかった。
震災10日後の2011年3月21日、たまたま、岩手県陸前高田市の遺体安置所にいた。安置所には約30体の遺体が納体袋に納められ、中に3歳ぐらいの女児がいた。状態は悪かった。しかし、見た瞬間、職業意識が働いた。「戻せる、復元できる」。きれいな顔で両親に会わせてあげたい。復元、死化粧に必要な用具一式は、いつも車に積んでいた。しかし、復元には遺族の了承が必要だった。女児は身元不明。合掌しながら、何も出来ないことが無念だった。
落ち込んでいたところに携帯電話が鳴った。笹原さんが被災地にいることを知った葬儀屋さんからだった。「遺族が死者と対面できない状態になっている。復元を、お願いできませんか」。女子高校生で、陸前高田市の隣町の祖母宅に安置されていた。震災犠牲者の復元も、亡くなってから10日目の復元も初めてだった。長い髪の毛は砂や藻にまみれていた。通常は20分ほどで終わる作業が2時間以上かかった。
復元後、遺族と死者との対面が終わった。祖母に廊下に呼ばれた。しわしわの手でぎゅっと握りしめられた。
「この手は、これからたくさんの悲しみに出会うんだよ。がんばれるように、魔法をかけてあげるから。がんばれなくなったら、思い出して。私はずっとあなたを応援しているから」
安置所には傷んでいる遺体が少なくなかった。犠牲者と遺族との最後のお別れの場に、復元作業は欠かせなかった。次々と復元の声がかかった。「自分の技術を生かせる。遺族に寄り添い、元気づけることができる」
身元不明の女の子の復元が出来なかった時に誓った。二度と後悔したくない。頼まれたら絶対、断らない。おばあさんの励ましの言葉をお守りに、車中泊による復元、納棺作業の日々が続いた。(大槌町総合政策課・但木汎)
連載【岩手・大槌町から】
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