王貞治「本塁打55本」の大きすぎる壁 外国人選手は「神の記録」超えられない?

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   プロ野球、東京ヤクルトスワローズのウラディミール・バレンティン選手が本塁打を量産している。今のペースで打ち続ければ、シーズン最多記録の55本を超える可能性が高い。

   この記録は、王貞治氏が現役時代に打ち立て、その後ふたりの外国人選手に並ばれたものの今も歴代1位に輝く。「聖域」とすら位置づけられる記録を破ろうとすれば、ある種の「見えない力」に対抗することになるかもしれない。

怒りのあまり敬遠球を安打したバース

   バレンティン選手は2013年8月15日までに41本塁打を放った。残り試合から単純に計算すると58本に到達する。新記録達成が現実味を帯びてきた。

   過去にも「記録超え」に迫ったケースはあった。最初は1985年、阪神タイガースで活躍したランディ・バース選手だ。公式戦1試合を残して54本塁打と、可能性は十分だった。だが最終戦の相手は読売ジャイアンツ、監督は王氏が務めていた。巨人は敬遠策を徹底。当時のスポーツニッポンによると、バッテリーは「王監督からの指示はなかった」とする一方、捕手が「監督が築いて、守ってきた記録だからね」と漏らしたそうだ。バース選手は怒りのあまり、敬遠球にバットを出して中前打を放ったという。

   2001年には、大阪近鉄バファローズ(当時)のタフィ・ローズ選手が王氏に並ぶ55本に達した。この時点で残り5試合。だが試練はここからだった。同年9月30日の福岡ダイエーホークス(当時)戦、監督はくしくも王氏だった。「多く打席が回るように」と打順1番に起用されたローズ選手だったが、結果は2打数無安打2四球。凡退したのもボール球に手を出しての結果だ。

   王氏はスポーツ報知の取材に「おれは一切、選手に任せている。勝負を避けろ、というのは一切ない」と断言していた。だが王氏の思いとは別にバッテリーコーチがミーティングで「四球攻め」を指示していたことが分かり、パ・リーグ会長が球団に厳重注意する事態となった。残り試合も快音は響かず、タイ記録に終わった。

   翌2002年、今度は西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)のアレックス・カブレラ選手が挑む。やはり5試合を残して55本塁打に到達した。だが同年10月5日の福岡ダイエー戦では3四死球と勝負を避けられ、報道陣に向けて敵将だった王氏を思わず批判したほどだ。その後も本塁打ゼロで、またしても「王超え」はならなかった。

「ベーブ・ルース超え」本塁打に祝福なし

   スポーツジャーナリストの菅谷齊氏は、「王氏自身が何か指示したとの話は一切ありません」と明言する。野球人であれば誰でも記録を目指すものであり、自己記録を何が何でも守ろうとのこだわりは、王氏にはないと考える。ただ、王氏が監督を務めていた巨人や福岡ダイエーのコーチや選手は、相手に記録を破らせてはならないと「言わば『場の雰囲気』をよんで四球攻めを選択したのでしょう」。

   ローズ選手やカブレラ選手の場合、福岡ダイエー以外の対戦もあり、そこでは敬遠続きだったわけではない。ファンはふたりを後押しし、四球になるたびスタンドからは罵声が飛んだという。それでも記録達成がならなかったのは、「世界の王」を超えようとする自分にさまざまなプレッシャーが降りかかってきたのだろう。

   「55本塁打」は、言わば日本球界にとって「神の記録」と位置付けられていると菅谷氏。実はかつて米大リーグにも同様のケースがあった。ベーブ・ルースが長年保持し続けていた年間60本塁打の記録を、1961年にニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスが抜く。ルースは大リーグの象徴的プレーヤー。ヤンキース生え抜きでなく今ひとつスター性に欠けるマリスが超えるのは、球界もファンも許さない風潮が高まった。本拠地で本塁打を放ってもブーイングが飛ぶ始末で、果ては祝福ムードのない新記録樹立となってしまった。それほどルースの存在は大きく、「侵さざるべき記録」だったのだろう。

   仮にバレンティン選手が王氏の記録を抜く可能性が近づいたら、周囲はどのような雰囲気に変わるだろうか。

   ただ2001、2002年当時と違うのは、「今は王氏がユニホームを脱いで、現場から離れている」点だ。グラウンドにその姿がないので、若い選手は記録の「呪縛」を感じないかもしれない。とは言え球界全体としては、若手がむやみにバレンティン選手に勝負を挑んで、日本野球の「宝」である王氏の記録が塗り替えられては一大事、と考えていても不思議ではないと菅谷氏は指摘する。この雰囲気がまん延したとしたら、対戦チームとしては容易に「56本目」を打たせる機会を与えるわけにはいかないのではないか、と少々大胆に推測した。

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