東京電力福島第一原子力発電所の元所長で執行役員の吉田昌郎氏が2013年7月9日、食道がんのため、亡くなった。2011年3月11日の東日本大震災の翌日、事故が発生した福島第一原発にあって、現場の収束作業を指揮した、その人だ。
生前、吉田さんは「原発事故の経験や感じたことを後世に遺さなければならない」とたびたび口にしていたという。
極限の状況を経験、「記録を遺さなければ」
亡くなった吉田昌郎さんは58歳。吉田さんの東京工業大学の先輩で、東電・福島第一原子力発電所長、常務取締役を歴任した東京工業大学の二見常夫特任教授は、吉田さんが2012年3月に食道がんの手術のために入院する前、「体調が回復したら、会いましょう」とメールのやり取りをしたのが最後となった。
退院後もしばらく、抗がん剤を投与。その夏、吉田さんは脳出血で倒れ自宅療養していた。「約束が、果たせなかった」と、二見教授は悔しがる。
そんな二見教授に、吉田さんはメールで「原発事故の経験や感じたことを、本として記録して遺したい」と伝えていた。「そのことを最初に知ったのは昨年(12年)の正月ですね」と明かす。
二見教授は、「(原発事故という)極限の経験を、自分として後世に遺すことが社会の財産となり、将来の役に立つ、と書かれていました。(そこに考えが至ったのは)彼であれば、ごく自然なことだと思います」と、推察する。
吉田さん自身、11年11月には「福島県の地元の皆さんにご迷惑かけたということ、これはこの事故が起きてから忘れたことはありません」と語っており、執筆した回顧録の印税を「福島の被災者のため」に寄付することも考えていたようだ。すでにどこかの出版社が、そうした「本人による回顧録」の編集作業を進めているかなどは、いまのところ明らかにされていない。
二見教授は、「命を賭して、リーダーシップを発揮し、また現場経験を生かして対応にあたってくれたことは本当によくやってくれたと思っています。あの大惨事の、厳しい状況で、現場にいた消防や社員らの協力を得られたのは、彼が所長だったから成し遂げられたことといえます」と、思いやった。
吉田さんらが語った「原発本」、急きょ増刷決める
一方、PHP研究所が2012年11月に発売した「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」(門田隆将著)が売れている。
吉田元所長が亡くなった翌、2013年7月10日のアマゾン・ランキングでは総合2位。PHP研究所は、「問い合わせが相次いでいます」と話し、急きょ増刷を決めた。「読者の方などの反響もありますが、当社としても、引き続き、長く書店に置いてもらいたい本として、増刷を決めました」と話している。7月11日時点で、9万部が売れている。
同書は、福島第一原発の事故当時所長だった吉田昌郎さんのほか、首相の菅直人氏や原子力安全委員長の班目春樹氏、事故発生後も事態の収拾に残った50人の作業員など90人以上が赤裸々に語った「驚愕の真実」を記録した作品。
同書の帯には、吉田さんの写真とともに、「私はあの時、自分と一緒に『死んでくれる』人間の顔を思い浮かべていた」という言葉が紹介されている。
吉田さんが亡くなられ、同書は貴重な記録となった。