球界を揺るがす「統一球問題」で、加藤良三コミッショナーが会見に臨み、ボールが変更されていた事実を全く知らなかったと発言した。そのうえで「不祥事ではない」と辞任する意思のないことを明らかにした。
何も知らされていなかったとしたら、それはそれでコミッショナーとしての指導力が問われる。過去にも東日本大震災直後にプロ野球の開幕を強行しようとしたり、第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)出場を巡って選手会と「対立」したりと、たびたび物議をかもしていた。
東日本大震災からわずか2週間後の開幕判断に批判
統一球の変更は、日本野球機構(NPB)の下田邦夫事務局長が独断で手掛け、メーカーのミズノに発注の説明をしたのが2012年10月4日だったというのが、NPB側の説明だ。一方、加藤コミッショナーはこの事実を2013年6月11日まで知らなかったと主張。組織内の情報伝達やガバナンスに問題があり混乱を招いたと謝罪する一方、隠ぺいする意図も不祥事との認識もないと言い切った。
2011年の統一球導入の陣頭指揮をとったのは、ほかならぬ加藤コミッショナー。ボールには本人の名前が刻印されている。そこまでして「いざ問題が起きたら知らぬ存ぜぬでは、筋が通らない」と、野球評論家の江本孟紀氏は6月13日付のサンケイスポーツ紙で怒りをあらわにした。プロ野球選手会の嶋基宏会長(東北楽天ゴールデンイーグルス)は報道陣に「知らなかった、では選手もファンも納得しない」とその姿勢を非難した。
加藤コミッショナーは東京大学から外務省に入省し、2001~08年、駐米大使を務めた。任期は戦後の歴代駐米大使で最長だったという。もともと野球ファンで、大リーグでは始球式を7回も務めたと6月13日放送の「とくダネ!」(フジテレビ系)は伝えた。マウンドからノーバウンドで捕手にボールを投げる当時の始球式の様子も流した。現在は週1回の「コミッショナー業務」で月給200万円、交際費1000万円を受け取っているという。
コミッショナーには2008年に就任。前任の根來泰周氏は、いわゆるプロ野球再編問題でリーダーシップを発揮できず、2007年に退任(以後、コミッショナー代行)していた。およそ1年の「コミッショナー空白期」を受けての登場で期待が集まった。改革の目玉として統一球導入を実現したが、2011年3月11日の東日本大震災以降の対応で世間の不評をかってしまう。
震災直後、関東地方を中心に計画停電が実施されるなど深刻な電力不足が起きた。選手会は「開幕延期」を要望し、甚大な被害を受けた仙台を本拠地とする東北楽天が所属するパ・リーグは早々に延期を決めた。ところが加藤コミッショナーは、「セ・リーグは予定通り3月25日開幕」と断言する。これに文部科学省が、東京電力や東北電力管内以外での試合開催や、ナイター中止を文書で強く要請した。世論の反対も強くなり、二転三転したうえようやく4月12日にセ、パ同時開幕に落ち着いた。コミッショナーの判断が、世間を騒がせるドタバタ劇を招いてしまった格好だ。
WBC「選手は参加すべき」発言で猛反発食らう
第3回WBCを巡っては、プロ野球選手会との間であつれきが生じた。収入の配分が大リーグ側に偏っており不公平だとして、選手会は2012年7月20日に「WBC不参加」を決議した。これに対して加藤コミッショナーは「選手会は参加すべき」と発言したため、選手側が猛反発。紆余曲折の末9月になって一転、参加を表明するが、当時会長だった新井貴浩選手(阪神タイガース)は会見でコミッショナー発言を「残念」としたうえで、日本の選手の権利を守るために本来は加藤コミッショナーが大リーグ側と交渉すべきと異例の批判をしている。
同じ年には「再選」が危ぶまれる事態に陥っている。コミッショナーは12球団のオーナーにより選任される。2012年6月末に2期目の任期が満了し、すんなり進めばそのまま3期目に入るところだったが、持ち回り決議でパ・リーグの複数球団のオーナーが承認しなかったという。当時スポーツニッポンは、「実務、運営面での実績不足」との声があり、さらにコミッショナーの選任方法を明確にすべきとの指摘が出たと報じていた。最終的には2012年7月12日に開かれたオーナー会議で再任が認められたのだが、この時も一部オーナーが最初は賛成せず、コミッショナーの役割の明確化や選考方法の決定などを条件にようやく決まったのだという。