プロ野球・巨人やニューヨーク・ヤンキースで活躍した松井秀喜選手が現役引退を表明した。結果を残せなくなり、大リーグに渡る際に表明した「命懸けのプレー」が終わりを迎えた、と語った。
会見ではたびたび、巨人時代からの「師」である元監督の長嶋茂雄氏に感謝を示し、共に過ごした日々のエピソードを披露した。松井選手は、長嶋氏が自ら手塩にかけて育てた数少ない「直弟子」だったのだ。
監督自宅地下の「バットスイング室」で英才教育
米ニューヨークで日本時間2012年12月28日朝に開かれた会見で、松井選手は「引退」という言葉をあえて使わず、「20年間に及んだプロ野球選手人生に区切りをつける」と表現した。今季は、開幕1か月後にタンパベイ・レイズと契約したものの、成績不振でシーズン途中で退団。去就が注目されていたが、自ら現役生活にピリオドを打つ決意を表明した。
冒頭から約15分間、これまでの歩みを振り返るなかで強調したのが、長嶋氏への思いだった。1992年のドラフト会議では、松井選手の1位指名に4球団が競合。くじで交渉権を引き当てた長嶋氏が、右手親指をグッと立てて笑顔を浮かべたシーンは印象的だ。巨人入団は「すごい光栄なことだった」と振り返る。
当時取材に当たっていたスポーツジャーナリストの菅谷齊氏は、もともと阪神ファンだった松井選手に指名当日、「長嶋氏自ら電話を入れて口説いた」と話し、続けて「実はその夜、松井家では赤飯を炊いたのです」と明かした。これこそ、長嶋氏の誘いを受け入れて巨人入団を決めた「意思表示」だった。
会見で「最も思い出に残るシーン」を問われると、「いっぱいありますね」と10秒近く考えた後に口にしたのは、「長嶋監督と2人で素振りした時間」だった。プロ入り初本塁打でも、ワールドシリーズMVPでもなく、「毎日のように2人きりで指導してもらった」日々こそが「僕の野球人生にとって大きな礎となった」と、やや目を潤ませた。
菅谷氏は「長嶋氏は、心の底から松井選手を自分の手で育てたかった」と話す。超高校級だった松井選手が入団間もない頃、そのバットスイングを観察して「このままでは4番は打てない」と自ら英才教育を始めたのだ。東京・田園調布の自宅地下に設けた「バットスイング室」に呼び寄せ、熱心に指導に当たった。松井選手が「(長嶋氏から)プロ野球選手としての心構え、練習や試合の取り組み方すべてにおいて学んだ」と感謝したのは、こうした師弟関係が背景にあったのだろう。