寺島しのぶや宮台真司らが追悼 「鬼才」映画監督・若松孝二氏死す

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   「キャタピラー」「実録・連合赤軍」などで数々の映画賞を受賞した映画監督の若松孝二さんが2012年10月17日夜、死去した。若松監督は10月12日、歩行中にタクシーにはねられ意識不明の状態が続いていた。76歳だった。

   70歳を過ぎても監督、プロデューサーとして精力的な活動を続けていた若松監督。突然の訃報を知った俳優や関係者らはツイッターやブログを通じて追悼の声を寄せた。

「悲しくて涙がとまりません」

   若松映画の熱烈なファンで、長年親交を深めてきた社会学者の宮台真司さんは、自らの公式ブログに長い追悼文を掲載。大きな存在を失った心情をつづっている。

「若松孝二監督ご逝去の報に衝撃を受けています。(中略)中高生時代の僕には監督の作品が心の支え。監督なくして今の僕はない。若松監督の御冥福を心よりお祈り申し上げます」
「この文章を書きながらも、悲しくて涙がとまりません。監督がいなければ、本当に今の僕はいないのです。監督がいなければ松田政男さんの本も読まなかったし、松田さんの本を読まなかったら廣松渉さんの本も読まなかったし、そうしたら社会学に学問的な興味を抱くこともなく、社会学者になんてなっていなかった」
「『ここではないどこかにいきたい』。でも『どこかに行けそうでどこにも行けない』。僕はずっとずっとそう思ってきました。20歳代のときに海外にバックパッカーとして旅行したときもそれは変わりませんでした。30歳代を売買春フィールドワーカーとして全国巡礼して過ごしたときも変わりませんでした。そういう僕のすべてを理解して下さっていた若松監督でした」

   若松監督は宮城県出身。様々な職業を経てピンク映画の監督になり、「胎児が密猟する時」「ゆけゆけ二度目の処女」など強烈なタイトルの作品を連発、「ピンク映画の鬼才」として高い評価を得るようになった。71年にはドキュメンタリー「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」を撮って反体制の立場を鮮明にした。

   若松監督と同様に東北地方出身で、フォーク歌手の三上寛さんはツイッターに悲しみのコメントを掲載した。

「若松孝二逝く。東北の寒村から上京。『かりん糖』屋に勤める。遂には世界の最高峰を極めた。生涯一貫して権力、権威と対峙し、ぶれることがなかった。見事な人生だった。私にとっては最後まで、『偉大なアニキ』だった! 安らかに眠れ!!!!」

   美術家でグラフィックデザイナーの横尾忠則さんもツイッター上で、同世代の表現者の死を悼んだ。

「近年の彼は何かにとりつかれたように次々と作品を連発していた。誰かが『死に急いでいる』と言っていたが、その通りになった。僕と同年だ。長い間会っていなかった」

「一篇の詩のような美しい人生」

   コメンテーターでお笑い芸人の水道橋博士も、若松監督から影響を受けた一人。ツイッターには

「昨年6月初対面でインタビューした。準備を万全にしたので75歳の監督は僕を認めてくれた。20歳のとき、監督の『俺は手を汚す』を読んだ。極道あがりの若者が活動家になり、映画を撮り続け、左翼の活動家としても最後まで革命を応援し続けた。一篇の詩のように美しい人生だった」

   と記した。

   「キャタピラー」(2010年公開)でベルリン国際映画祭の主演女優賞を受賞し、若松監督の遺作となった「千年の愉楽」でも主演した寺島しのぶさんは自身の公式サイトに心境を吐露した。

「いやな予感がした。やっぱり。突然いなくなってしまった若松監督。人をびっくりさせることが大好きな監督。『銀熊賞取れなかったよ。』『嘘!おめでとう』って驚かせてくださったみたいに嘘だよって言いながら現れてほしい。監督の誕生日のエイプリルフールみたいに」
「今年のベネチア映画祭に行けたのを一番に報告してくださった監督、私の出産を本当に喜んで、早く見たいと言ってくださっていた監督、心優しい監督、弱い者の味方で、強いものにはくってかかる監督、お酒と美味しいものが大好きな監督、何よりも映画を作り上げることに執念を燃やした監督。今いったい、いったいどこにいらっしゃるんですか」

   若松監督の公式ブログは釜山映画祭で「今年のアジア映画人賞」を受け、帰国した10月9日付で止まっている。「千年の愉楽」の公開はもう年明けに迫っていた。

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