(ゆいっこ花巻;増子義久)
「21世紀における柳田国男」…をテーマにした国際フォ-ラムが23、24の両日、遠野市で開かれた。『遠野物語』の著者である柳田の没後50年を記念したイベントで、遠野物語の英訳者と知られるロナルド・A・モース氏や故井上ひさしの『新釈 遠野物語』の翻訳者のクリストファー・ロビンス氏、国立歴史民俗博物館名誉教授の福田アジオ氏ら内外の研究者9人が活発な議論を展開した。
遠野文化研究センター所長で民俗学者の赤坂憲雄氏(学習院大学教授)は「柳田国男研究の新たなステージに向けて」―と題する提言の中で、「東日本大震災を体験した今こそ、柳田への回帰が必要ではないか。3・11以降、忘れ去られていたと思っていた共同体の絆(きずな)が健在であることが明らかになった。死者を悼み、魂の救済を求めるというこの精神こそが柳田の原点だと思う」と語った。
「例えば…」と言って、赤坂氏は『遠野物語』99話の幽霊の話を引き合いに出した。遠野から沿岸に婿入りした男が「明治三陸地震津波」(明治29年)に遭遇し、妻子を失う。残った子ども2人と元の屋敷に小屋掛けして暮らしていた時、妻の亡霊が現れる―という話である。「この話には死者と生者の生々しいまでのコミュニケーションが描かれている。両者の和解を予感させる話でもある」と赤坂氏。
柳田の代表作『先祖の話』は敗戦翌年の1946(昭和21)年4月に刊行された。その中の一節に次のような文章がある。「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思う一つの点は、日本人の死後の観念、すなわち霊は永久にこの国土のうちに留まって、そう遠方へは行ってしまわないという信仰が、おそらくは世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられているということである」(61ページ)
東日本大震災1周年の今年3月11日現在、死者は15,854人で、行方不明者は3,155人に上っている。赤坂氏は「震災から1年半になろうとしているが、被災地では魂を救済しようという供養と鎮魂の営みは絶えることはない」と語り、復興の理念としての「柳田の可能性」を強調した。
2日間にわたるフォーラムでは「グローバルな視点から見た柳田国男」「いま、『遠野物語』とは何か」「可能性としての文化的伝統」などのセッションが開かれた。
<注>遠野物語99話
土淵村の助役北川清といふ人の家は字火尻にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。清の弟 に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子を失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。
夏の初めの月夜に便所に起き出しが、遠く離れた所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近寄るを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばる船越村の方へ行く崎の洞(ほこら)ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。
男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互ひに深く心を通はせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くないのかといへば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。
死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(おうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後、久しく煩(わずら)ひたりといへり。
【田の浜(山田町船越)の被災状況】(明治29年6月15日)
全戸270戸流失、死者763人。火災発生し、役場職員全員死亡。津波の高さ9・11メートル。
(『遠野学』創刊号「特集 震災と文化」より)
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