「もうイヤ、できない」という壁がなかった
高校卒業後の2001年、現在も所属する女子サッカー「なでしこリーグ」(当時はL・リーグ)の岡山湯郷ベルに入団。02年には日本代表に初めて招集され、06年ごろからレギュラーに定着した。サッカー選手として順調にキャリアを積んでいるように見えるが、なでしこジャパンが世界の頂点を目指す中では「挫折」も経験している。
正GKとして臨んだ2008年の北京五輪、4位の成績を残した。五輪では過去最高だったが、メダルに届かなかったのも事実だ。大きな壁となって立ちはだかった米国には1次リーグ、準決勝と2回対戦して連敗。特に準決勝ではキーパーとして4点を献上する屈辱を味わった。3位決定戦でもドイツに2失点を喫して敗れ、世界トップとの差を痛感させられることになる。
五輪終了直後、福元選手はなでしこリーグの試合中に左アキレス腱断裂の大けがを負い、09年4月に復帰するまで約半年を要した。11年のW杯ドイツ大会では、正GKの座を海堀あゆみ選手に譲り、控えに回る。その海堀選手は決勝の米国との試合、PK戦で2本ブロックと最高のプレーで世界制覇に貢献した。国内では「なでしこフィーバー」が起き、テレビではその快挙が連日報じられた。選手は連日ひっぱりだこ。だが、福元選手自身は表舞台で活躍する機会がなかっただけに複雑な心境だったかもしれない。
ロンドン五輪前、日本代表の佐々木則夫監督は正GKの決定をギリギリまで伸ばした。そして福元選手を起用――これが「吉」と出た格好だ。8月7日に日本テレビで放送された情報番組「スッキリ!!」の中で、サッカー解説者の大竹七未さんは「準々決勝からラッキーガール。(フランス戦でも)流れを引き寄せてくれた」と絶賛した。
「『もうイヤだ、ここはできない』という壁がなかった気がする」。前述のMBCの番組で、福元選手を指導した松下さんはこう振り返っていた。フランス戦後のインタビューで、福元選手は「時計を見ても、全然時間が過ぎなかった」と話したが、雨あられと降り注ぐシュートを防ぎきった忍耐力、決して失点しないという強い精神力は、子どものころ既に培われていたようだ。金メダルを争う相手は、北京五輪で2度苦杯をなめた米国。鉄壁の守りで、北京の借りをロンドンで返す。