大人は常にアンテナを張っておく必要がある
7月上旬には滋賀県大津市の市立中学2年の男子生徒が「自殺の練習」などのいじめを受けて自殺した問題が発覚した。この学校では、担任教師が自殺した男子生徒が加害生徒から暴力をふるわれているのを見ても「やりすぎんなよ」と笑って止めなかった、という生徒の証言が報じられている。
過去には「葬式ごっこ」で注目された「中野富士見中学いじめ自殺事件」がある。1986年に中学2年の男子生徒がいじめを苦に自殺した事件だが、自殺の前に加害生徒らのグループによって「葬式ごっこ」が開かれ、担任教師ら4人が寄せ書きを添えて荷担した。教師らは「どっきりだから」と加害生徒に説明され寄せ書きしたと釈明したという。
こうした酷いいじめでも教師らが見て見ぬふりするどころか荷担するというのは、教師自身も「いじめ」と「悪ふざけ」の境界線を見失っているということなのだろうか。また、周囲の保護者らもそれを見極めるのは困難なのだろうか。
教育評論家の森口朗氏は、「困難です」と断言する。いじめか否かはそれを受けている子どもの主観で判断するしかなく、子どもがいじめだと思えばいじめだし、いじられているだけだと思えばそれは「いじり」になる。だから、周囲の大人は子どものSOSを待つしかないという。
ただし「これはさすがに危ない」という空気は察知できるため、子どもたちに対しては常にアンテナを張っておく必要がある。もっとも大津市の事件では、男子生徒は再三のSOSを出していたにもかかわらず最悪の事態になってしまったため、明らかに教師の怠慢だ、と森口氏は指摘した。