お妃選考首脳らの無私の働きに感動を覚える――。
「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に、皇太子さまがたの「『テニスコートの恋』をめぐる虚実」に関する推理を聞くインタビュー第2部5回目(最終回)は、佐伯さんによる推理の結論を語ってもらう。
1958年5月2日の会議で「ほぼ一本化」
ご婚約が発表される約半年前の1958年5月2日にあった宇佐美毅・宮内庁長官邸での会議で、美智子さんへのお妃候補一本化がほぼ決まりました。
この5月の半ばごろまでには、皇太子さまと美智子さんは「恋に落ちて」いて、7月ごろまでには少なくとも皇太子さま側はかなり良い感じになっていたとみています。
皇太子さまは後に、美智子さんについて学友に「初めは伴侶にふさわしい人か、と冷静に観察しているつもりだった。恋愛感情になったのは後になってからだ」という趣旨のことをもらされたようです。
もっとも、学友によっては、「自由恋愛とみられることに皇太子さまは納得がいっていない様子だった」と話す人もいました。最後まで「未来の皇后としてふさわしいか」という視点で冷静に判断した、ということでしょうか。
以降の流れは、1部のインタビューの後半で触れた通りです。9月18日に黒木従達・東宮侍従が、美智子さんの実家の正田家へ皇太子さまによる求婚のご意思を伝え、正田家はほどなくお断りをします。その頃、美智子さんは「お妃選びにもみくちゃ」にされることを避けるため、実家の意向で外遊中でした。
10月26日に美智子さんが帰国後、皇太子さまへお断りの手紙を美智子さんは書いて送ります。しかし、学友の仲介で皇太子さまは連日のように美智子さんと電話で話をされます。恐らく数日のうちに、お2人の間では、ご結婚への合意ができたのではないかと推測しています。
兄も父も納得せざるを得ない「お言葉」
そして11月3日に正田家は箱根のホテルで家族会議を開きます。美智子さんは、反対していた兄巌さんと父英三郎さんの意見が変わらなくとも結婚を貫こうと決めていたようです。当日に現地のホテルで、家族会議後に1人だけ取材ができたぼくに、直接的な表現ではないものの、結婚への「決意」を話してくれました。
ご本人の決断にもかかわらず、兄巌さんと父英三郎さんの(当時としては無理もない)深刻な懸念から正田家の意思決定は、こう着状態に陥ります。それを打開するために11月3日夜から4日にかけ、その懸念を皇太子さまへお伝えしようと、水面下で母冨美さんの苦心の働きがあったに違いない、とぼくはみています。
それに見事に対応して皇太子さまは11月5日の夜遅く、黒木侍従を正田家に派遣し、誠意に満ちたお言葉を伝えさせました。兄も父も納得せざるを得ない委曲を尽くしたもので、ここで正田家として事実上申し込みをお受けする旨をお答えしたのです。
11月8日には、宇佐美毅・宮内庁長官が天皇陛下にその旨、報告申し上げたのです。さらに11月13日、正田家が形式上、選考首脳の小泉信三さんに正式に受諾を伝え、11月27日にご婚約が発表されます。ご成婚は翌1959年4月10日です。
ぼくの推理をまとめると、最初の1957年8月の軽井沢テニスコートでの出会いは偶然で、皇太子さまは、美智子さまについて少し気になる程度で、そのとき恋に落ちたわけではない。
2度目の東京・調布でのテニス(1957年10月)は、皇太子さまのお気持ちも考えながら黒木侍従が背中を押したふしがあり、皇太子さまと美智子さまの同じ東京のテニスクラブ入りもお妃選考首脳によるお膳立てがあった。
綱渡りのように慎重にうまく話を進めた結果
そして、旧華族のお妃候補の線が実質的には消えた3月上旬以降、お2人は急速に東京のテニスクラブを中心に出会いを重ね、恋愛されるに至った。
お2人のご婚約(1958年11月27日)とご成婚(59年4月10日)は、多くの人がイメージしているような単純な恋愛結婚でもなく、逆に単純な調整された結婚でもない、「責任をもって調整、アレンジされた恋愛結婚だ」というのがぼくの結論です。
民間お妃が誕生する場合、単純な恋愛結婚でも、単純な調整された結婚でも事態はうまく動かない。しかも民間お妃誕生には反対勢力がいる、という微妙な情勢の中、お妃選考首脳らが、皇太子さまのご意向も踏まえながら綱渡りのように慎重にうまく話を進めた結果がお2人のご婚約・ご成婚だと考えます。
そうした「単純な恋愛ではない」という意味で、第2部1回目で話した宇佐美毅・宮内庁長官による国会での「恋愛否定」答弁にはウソはありません。
こうした微妙な情勢を乗り越えることができたのは、田島さんたちのような選考首脳の無私の働きがあったからだと、私はある種の感動を覚えずにはいられません。
皇太子さまのご成婚を単純な「軽井沢テニスの恋」物語で語ることは、こうした歴史の裏舞台で真摯に活動してきた当時のお妃選考首脳の人たちを埋もれさせることになっていると感じています。もっと彼らの活躍に光があたり、若い人たちの間でも少しでも語られ続けるといいなと思っています。
<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>
<佐伯晋さんプロフィール>
1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。