兄も父も納得せざるを得ない「お言葉」
そして11月3日に正田家は箱根のホテルで家族会議を開きます。美智子さんは、反対していた兄巌さんと父英三郎さんの意見が変わらなくとも結婚を貫こうと決めていたようです。当日に現地のホテルで、家族会議後に1人だけ取材ができたぼくに、直接的な表現ではないものの、結婚への「決意」を話してくれました。
ご本人の決断にもかかわらず、兄巌さんと父英三郎さんの(当時としては無理もない)深刻な懸念から正田家の意思決定は、こう着状態に陥ります。それを打開するために11月3日夜から4日にかけ、その懸念を皇太子さまへお伝えしようと、水面下で母冨美さんの苦心の働きがあったに違いない、とぼくはみています。
それに見事に対応して皇太子さまは11月5日の夜遅く、黒木侍従を正田家に派遣し、誠意に満ちたお言葉を伝えさせました。兄も父も納得せざるを得ない委曲を尽くしたもので、ここで正田家として事実上申し込みをお受けする旨をお答えしたのです。
11月8日には、宇佐美毅・宮内庁長官が天皇陛下にその旨、報告申し上げたのです。さらに11月13日、正田家が形式上、選考首脳の小泉信三さんに正式に受諾を伝え、11月27日にご婚約が発表されます。ご成婚は翌1959年4月10日です。
ぼくの推理をまとめると、最初の1957年8月の軽井沢テニスコートでの出会いは偶然で、皇太子さまは、美智子さまについて少し気になる程度で、そのとき恋に落ちたわけではない。
2度目の東京・調布でのテニス(1957年10月)は、皇太子さまのお気持ちも考えながら黒木侍従が背中を押したふしがあり、皇太子さまと美智子さまの同じ東京のテニスクラブ入りもお妃選考首脳によるお膳立てがあった。