民間から皇室に入るのは想像もできないほど敷居の高いこと
そうすると、皇太子さまご本人が強い情熱をもって、反対する皇族の方々を説得されなければならなくなります。その際、その説得の原動力になるよう「皇太子さまに恋愛して頂く」必要性がある、と首脳らは考えたのではないでしょうか。
実際、皇太子さまは後に、ご婚約が決まることになる1958年11月27日の皇室会議の前、11月12日に3時間半かけて秩父宮妃らに説明なさることになるのですが。
さらには、民間から皇室に入るということは、今では想像もできないほど敷居の高いことだと当時は考えられていたので、お妃候補になる人への説得も、選考首脳らだけでなく、皇太子さまご本人からの働きかけが不可欠で、その働きかけの情熱の原動力としても、やはり「恋愛」が重要だ、と首脳らはみていたのでしょう。
この1958年3月3日の小泉邸首脳会議の後、4月の初旬には、理由ははっきりしませんが、旧華族で候補だったH嬢が選考からはずれたことが首脳らの間で確認されました。
以降、民間候補の美智子さんに意見を集約する方向で選考首脳らは動いていきます。5月2日の宇佐美毅・宮内庁長官邸での会議では、ほぼ美智子さんへの候補一本化が決まります。
<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>
<佐伯晋さんプロフィール>
1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。