旧華族のK嬢の線で進めていることを強調
では、1957年10月の東京・調布でのテニスの段階で、美智子さんをお誘いするよう水を向けた黒木侍従はどう感じていたか。
美智子さんについて、かなりの手応えを感じ、良い鉱脈を掘り当てたと思っていたはずです。しかし、当時は守旧派の「常磐会」松平信子会長の推薦で、Kという旧華族のお嬢さんについて検討していました。
そのため、黒木侍従は、「開明派」ともいえる宇佐美毅・宮内庁長官ら一部の選考首脳には自分の考えや情報を伝えつつ、「守旧派」の松平会長らとパイプがある田島さんらには、あくまで旧華族のK嬢の線で進めていることを強調していたのでしょう。
すぐに情報が伝わってしまい、「民間なんてとんでもない」と大騒ぎになることが目に見えているからです。田島さんも、薄々そういう気配は感じていたかもしれませんが、「うまく利用されてやろう」と大きく構えていたのではないでしょうか。
「開明派」に理解がある小泉信三さんには、やや遅れて11月ごろには黒木侍従らが事情を説明しただろうとみています。
その後、年が明けて1958年の1月25日、事実上「Kはダメ」という流れが選考首脳らの間で固まりました。