お妃選びは旧華族のお嬢さん中心に進んでいた
常磐会の当時の会長が、秩父宮妃殿下の母、松平信子さんでした。皇太子さまの教育係を務めたこともあり、かなりの発言権と影響力をもっていました。また、(昭和天皇の)皇后陛下もそうしたご意向だとみられていました。
女性ばかりではなく、宮内庁の旧華族出身職員らなど、少なからず同様の意見をもっていました。
こうした空気を背景に、当初は旧華族のお嬢さんらを中心にお妃選びの選考が進んでいました。しかし、旧華族といっても、経済的に没落しているところも結構多くて、さすがに倒産したところの娘さんは無理だ、というケースもあったようです。
ほかにも、親族の病歴などでもはじかれていました。逆に宮内庁側が断られることもあり、ご婚約の前年、1957年の4月にはある旧華族とみられる家から、お妃選考首脳が「拝辞(へりくだった辞退)」されたことも分かっています。
旧華族のリストだけでは手持ちの数が心もとなくなってきたのでしょう、1957年秋ごろからは民間の女性まで対象に広げる必要がある、と一部の選考首脳らは考え始めたようです。
<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>
<佐伯晋さんプロフィール>
1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。