「そんなはしたないことは許さない」という守旧勢力
先の平井議員は、「殿下が軽井沢のテニスコートで見初めて、自分がいいというようなことを言うたならば、ここにおられる代議士さんの子どもと変わりない」「これが果たして民族の象徴と言い得るかどうか(略)」などと質問しています。皇室の尊厳の問題について強く懸念している質問となっています。
「恋愛結婚」説をめぐる推理に入る前に、1958年11月のご婚約発表に至るまでの当時の雰囲気を紹介しておきましょう。
宮内庁幹部らによるお妃選びが本格化したのは、ご婚約の3年前の1955年からとみられます。55年当時、皇太子さまは21歳でした。
当時は、「皇太子さまの恋愛結婚など、そんなはしたないことは許さない」という守旧勢力がいました。「皇太子妃になる人は、皇族か旧華族、それも家柄の格の高い旧華族の者で、厳密に選考された人でなければ」という発想で、「民間からのお妃」や「恋愛結婚」なんてとんでもない、という人たちです。
例えば、学習院女子中・高等科出身者でつくる「常磐会」の主流派。当時の皇族の宮妃殿下や旧華族の奥さんらが多くいました。宮中の女官らもおり、隠然たる発言力をもっていたのです。