侍従によるお妃入り申し込み その日に「たまたま」取材で訪れていた
元「お妃選び班記者」の取材ノートから(7)

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   記者が事前に約束していた美智子さまのご実家、正田家への何度目かの取材の日の朝、まったくの偶然で宮内庁の使者がある重大な知らせをもって正田家を訪れていた――。

   当時「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に聞く第7回は、佐伯さんが、ひょんな偶然から美智子さまの母冨美さんから美智子さまに関する相談を受けるようになるまでの佐伯さんの「強運」ぶりを紹介する。

外遊の話聞き、「お妃の話はつぶれたのか」

当時の取材ノートに目を通す佐伯さん。
当時の取材ノートに目を通す佐伯さん。

――前回、1958年8月13日に美智子さまの母冨美さんと、近く美智子さまに会わせてもらえる約束をしてから、実際に8月31日に初めて美智子さまに会うまでの間に大きな状況の変化があったということでした。何が起きていたのですか。

佐伯 急きょ、美智子さんの欧米外遊が決まっていたんだ。外遊の話を聞いたとき「これはお妃の話はつぶれたのか」という思いが頭をよぎったのを覚えている。
   そして実は、かなり後になって分かることだけど、取材を約束した8月13日の2日後の15日、宇佐美毅・宮内庁長官が、天皇陛下にお妃選びを美智子さんの線で進めることで了承を得ている。16日には、お妃選考首脳の経済学者、小泉信三さんがそのとき軽井沢にいた正田家夫妻に会いに行った。小泉さんも自分の軽井沢の別荘に事前に行っていたのだが、もちろん宇佐美長官の動きと調整されたものだろう。当時、暗中模索状態のぼくらが考えていたよりも、本当の事態は随分先に進行していたというわけだ。
   その際小泉さんは、美智子さんについて、今後縁談話がきても(第5回で出たように、5月の段階で小泉さんは正田夫妻と話していて、美智子さんに進行中の縁談はないことを確認している)凍結するように、と遠回しながら事実上、お妃入りを要請していたんだ。しかし、夫妻は「とてもとてもうちの娘ではお役に立てません」と断った。
   「危機感」をもった母冨美さんは、急きょ美智子さんを海外に出そうと決める。聖心女子大幹部と相談して、近くベルギーである国際的な聖心女子大の同窓会日本代表として派遣することにした。アメリカにも渡る予定で、9月頭に出発して11月頭に帰国する予定だった。冷却期間を置こうとしたんだろう。
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