美智子さまご実家と接触に成功 偶然重なった結果だった
元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(4)

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社長秘書が「今後とも会って話を聞きたい」

――紹介状のあるとなしとでは、印象がかなり違いそうですね。

佐伯 そうだと思う。日曜の5月18日に電話するとお手伝いさんが最初に出て、すぐに英三郎さんが電話口に出てきた。そして火曜20日に日本橋の本社へいらっしゃいと。

――とんとん拍子ですね。5月20日に初めて英三郎さんに会ったときも、有力情報が聞き出せたのですか。

佐伯 そうは簡単にはいかなかった。そのときの社長室での会話は、「とんでもない。夢みたいな話です」と、お妃候補に挙がっているということを初めて聞くようなそぶりで、とりつくしまがなかった。20分程度でこちらが根負けして成果なく部屋を出た。
   ただ、「後で考えれば」だけど、ぼくが面会を申し込んだタイミングが結果的にとても良かった。ぼくの取材には「知らないふり」をしたけど、正田家としても水面下で進んでいたお妃選び情報について、美智子さんが候補に挙がっているという噂が耳に入っていて、どうなっているのかと知りたくて仕方がない時だった。
   そのせいだろう、英三郎さんとの面談を終え階段を下りていると、社長秘書がぼくに声をかけてきたんだ。「今後とも会って話を聞きたい」と。

<編集部注:佐伯さんが当時のことを語る際、「民間」時代の美智子さまのことは「美智子さん」と表現しています>


<メモ:お妃候補リスト>

   佐伯さんによると、当時、華族大観や人事興信録などの資料をもとに、旧華族を中心にキャップの牧先輩は3年前の1955年からリスト作成・リストつぶし作業をしていた。ノートにまとめた1200人ぐらいのうちから、消える候補をつぶしていき、佐伯さんがお妃班に入った58年2月ごろには200人ぐらいが残っていた。

   牧さんはその頃、元華族ではない民間から選ばれる可能性も考えて、500人を新たにリストに加えた。この計700人を佐伯さんらで1人1人つぶしていく作業をしていた。家柄は良くても破産している家ははずす、お嬢さんの年齢が若すぎればはずす、などとやっていた。


(佐伯晋さんプロフィール)

1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。

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