朝駆け取材で異変をキャッチ 宮内庁長官がいつもと違う方向へ
元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(3)

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   「こんな原始的な取材方法やめましょう」、「何を言うか!」――朝5時半から宮内庁幹部ら宅を「朝駆け」し、午後も「夜討ち」や「候補者リストつぶし作業」を続ける生活を送っていた「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者、佐伯晋さん(81)はある日、幹部の動きの「異変」に遭遇する。

   その後、しばらくたってから張り込み取材の存続をめぐって、先輩記者から激怒されることになる。佐伯さんに聞く第3回は、お妃選び班として取材を開始して間もない時期の暗中模索ぶりを伝える。

当時出始めの携帯無線機を車に持ち込む

佐伯さんが当時まとめた取材ノート
佐伯さんが当時まとめた取材ノート

――前回の最後に出てきた、宇佐美毅・宮内庁長官の「朝駆け」取材で起きた異変とは何だったのですか。

佐伯 1958年2月16日、取材班にぼくが「召集」され、翌日から宇佐美長官の張り込みを始めてしばらくは何もなかった。それが3月3日夕、皇居を出た長官の車が、初めて長官の自宅以外の方向へ向かったんだ。
   3月1日からは、いざという時、相手にまかれないよう同僚の岡君の車とコンビを組んでいた。当時出始めの携帯無線機を車に持ち込んだ。肩にかけて持ち運びができるタイプで、縦横はA3用紙より少し小さい程度、厚さも結構あって重さは2キロぐらいはあったかな。細長い30~40センチのアンテナを車の窓から外に出し、コードでつながった通話機部分のボタンを押しながら「こちら朝日何号、敵(追尾相手)は右に曲がりました」とかやるわけだ。

――3月3日、長官の向かった先はどこだったのですか。

佐伯 小泉信三邸だった。小泉氏は当時の大経済学者で、慶応義塾の塾長も務め、皇太子さま(現天皇陛下)の「教育係」も務めた大物だ。小泉邸前にはほかにも車が止まっている。こうして隠密にときおりお妃選考の首脳たちが集まっていたということが、このとき初めて分かったんだ。
   取材ノートを見ると、この3月3日の会合は、「17時40分→23時15分」とある。以下のことははるか後、2002年に出版された「田島道治 昭和に『奉公』した生涯」(加藤恭子著)で引用された「田島日記」などをみて分かることなのだが、この3日の会議のときに、旧華族のK嬢がダメになったと判定され、旧華族H嬢について調査を深めることと、そして民間の正田美智子さんを候補に入れることが合意されるという重要な日だったんだ。
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