2012年秋に開かれる中国共産党の第18回大会では、指導部の大半が「若返り」するとされている。その党大会を半年後に控え、次期指導部入りも取りざたされていた薄煕来・重慶市の党委員会書記が3月15日、突然党中央から解任された。
これだけでも異例の事態だが、その少し前の2月初旬には、薄氏の元側近にあたる王立軍・前重慶市公安局長が、四川省成都の米国総領事館に逃げ込むという不可解な事件も起こっている。最高指導者就任が確実視されている習近平氏は、薄氏と同じ「太子党グループ」を基盤としており、今回の出来事が「習氏にとって打撃になった」と見る向きもある。習氏の権力基盤は盤石なのか。97年の鄧小平氏の死去を世界で初めて報じたことでも知られる、元朝日新聞編集委員で同志社大学教授の加藤千洋さんに聞いた。
――立軍氏の事件は、「政治亡命」だとの見方もあります。さらに、「薄煕来氏は、この事件の責任を取らされた」という説もあります。実際のところは、どうなのでしょうか。
加藤 王立軍氏の事件はまだ分からないことが多いですが、「本丸」は薄煕来氏が失脚したことにあります。「部下の管理責任」以上のものがありそうです。中国共産党のトップリーダーのほとんどが世代交代するという大事な政治日程を控えたこの時期に解任劇が起きたという事実を踏まえるべきです。王立軍駆け込み事件は、その入り口に過ぎません。より重要なのは、薄煕来氏が何故「切られた」のかでしょう。
野心的で、個人プレーが目立つ
――中国共産党は、9人いる「政治局常務委員」による集団指導体制だと言われます。
加藤 毛沢東、鄧小平らカリスマ的指導者なき後は集団指導の運営が行われています。9人の最後の1人に薄煕来が入るかどうかが焦点でした。もし薄煕来氏を引き上げれば、習近平体制では不安定要因になってしまう。その要素を事前に取り除いたということです。
――どのような点が、党中央に「嫌われた」のでしょうか。
加藤 薄煕来氏は野心的で、個人プレーが目立つ。重慶市のトップに就任した07年以降の振る舞いを見れば、明らかです。毛沢東時代の革命歌を歌う「唱紅歌」運動や、暴力団撲滅を目指した「打黒」運動が展開されました。そのやり方に問題があった。時には個人崇拝的なことも求め、大衆を動員・扇動し、密告も勧める。まさに文革を思い出させます。 「打黒」は市民には拍手喝采で迎えられたかもしれないが、そのやり方があまりにも法秩序を無視していた。法治に基づく政治を標榜している胡錦涛指導部にとっては、「許せない」という評価につながったのでしょう。背景には、年齢的にも最後のチャンスをつかみ、重慶での成果をバネにして政治局常務委員に上り詰めようとしていた薄煕来氏の「焦り」があったのではないでしょうか。
――解任は,3月5日から14日まで行われた全国人民代表大会(全人代)の直後でしたが、その前兆はあったのでしょうか。
加藤 見えない部分を読む上で重要なのが、2つの演説です。ひとつが、3月14日の全人代閉幕後に温家宝首相が3時間にわたって内外記者と会見し、
「文革の誤りと封建的な影響は完全にぬぐい得ていない。今の社会矛盾を解決できなければ、文革のような歴史的悲劇が再び起こるかも知れない」
といった異例の発言をした。王立軍事件については、
「『今の』重慶市党委員会と市政府は反省し、教訓をくみとるべき」
と批判した。後に述べますが、薄煕来氏の前任者にあたるライバルの汪洋(ワンヤン)氏や、さらにその前任者で、王立軍事件にかかわったとみられる賀国強氏は「セーフ」で、薄煕来氏だけに「×」をつけた形です。そして、翌15日に解任が発表された。
もうひとつが、3月16日に発売された中国共産党の理論誌「求是」に掲載された習近平氏の演説です。
演説は、3月1日に党幹部養成学校「党中央学校」の修了式で行われ、習近平氏は校長を兼務しています。
「大衆の関心を呼ぶために派手に立ち回り、人気取りをして個人的な利益を上げようとしている者がいる。党と人民の事業のさまたげになり、党のイメージを傷つけ、結果的には党への信頼を失わせる」
といった趣旨で、明らかに薄煕来氏の解任を前提とした内容といえます。