【置き去りにされた被災地を歩く】最終回・宮城県気仙沼市
被災者がガイドになって「応援ツアー」 今も「津波の跡」生々しく

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   東日本大震災の津波で、岩手県から福島県にかけての太平洋沿岸地域は壊滅的な打撃を受けた。宮城県気仙沼市でも死者・行方不明者が1300人を超え、街は津波に破壊されてがれきの山と化した。

   震災から1年、気仙沼では被災した住民が、外部から来た人のガイドとなって市内観光に一役買っている。津波に襲われた地域の視察も避けることなく、自らの被災体験も話すという。記者は気仙沼を訪れ、地元の男性ガイドに案内されて市内を回った。

ガイド継続「さまざまな意見が出た」

高台から鹿折地区を見つめる佐々木さん。背後には津波で流されてきた大型船も見える
高台から鹿折地区を見つめる佐々木さん。背後には津波で流されてきた大型船も見える
「地震が起きたとき、私はこのプールで泳いでいたのです」

   ガイド役の元会社員、佐々木洋一さん(71)はこう言うと、ひとつの建物を指差した。津波の猛威に耐えた代償として大きく傷ついた跡が痛々しい。

   プールの近くには震災前、JR南気仙沼駅前の駅舎が建っていた。駅周辺にあった建物の多くは、津波の餌食となった。タクシーを降りてプールの前に立つ。むき出しになった地面に大きな水たまり。ボロボロに壊れたバスが何台も無造作に残され、スクラップとなった車が山積みだ。駅はホームだけが残って原型をとどめていなかった。

   記者が訪れた3月15日は特に風が強い日で、砂ぼこりが舞う中で遠くを見渡すと崩れかけたコンクリートの建物と更地の荒涼とした風景が広がり、胸が痛んだ。

   もともと気仙沼では、佐々木さんのような地元出身のボランティアガイドが旅行者の観光案内役を務めていた。だが、ガイドたちも多くが被災。気仙沼観光コンベンション協会に聞くと、ガイドの継続についてはさまざまな意見が出たという。最終的には「たとえ大変な状況でも、あえて気仙沼の現状を見てもらおう」ということで一致し、2011年10月から市内の案内を再開した。現在では約30人のボランティアが活動している。

   南気仙沼駅前からタクシーで魚市場まで移動した後、湾に沿って佐々木さんと歩いた。スクラップ帳や自作のガイドブックを取り出して、気仙沼の歴史、震災による被害データ、昔の写真を披露してくれる。

   佐々木さんの自宅は魚市場の近くにあった。あの日、地震直後にプールから車で自宅に戻った佐々木さんは、夫人と避難後の合流場所を確認したうえで車を高台へ移動させた。夫婦ともども津波の難は逃れたが、自宅は全壊し、不自由な避難生活を余儀なくされたという。

   生々しい被災体験を聞きながら歩くと、目に入るのは今も陸上から撤去されていない小型船、海に落ち込んだ桟橋、大きくゆがんだ「港町ブルース」の歌碑――。ダンプカーをはじめ、復旧工事のための大型車両が次々と通り過ぎていくが、日中でも通行人の姿はほとんど見かけない。

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