3月11日の夜、豊間海岸にロウソクの灯がともった。堤防に沿って光の列ができ、メーン会場の海岸駐車場には「と」「よ」「ま」の文字が赤々と浮かび上がった(=写真)。津波で流された家の基礎部分にもロウソクの灯がともされた。
キャンドルナイトは、脚本家倉本聰さんが率いる劇団「富良野グループ」が主催した。3・11から1年。津波で亡くなった人を鎮魂し、豊間の復興を祈った。献花・献灯の列が続いた。メディアも多数詰めかけた。
メディアはしかし、どこまでキャンドルナイトの精神を理解していたか。倉本さんが主役ではない、死者が主役なのだ。どこのテレビ局だかわからないが、取材を終えて倉本さんと記念写真を撮るような感覚が、私には解せなかった。
メーン会場の「と」「よ」「ま」の飾りつけを担当したのは、知り合いの志賀大工たち地元の「とよま龍灯会」の面々。初めて聞く名前だ。地元の「若手」で急きょ結成したという。
大工のウデを生かして、板で「と」「よ」「ま」の三つの文字をつくり、斜めにセットした。高さはざっと2.7メートル。板には30段前後、木製の燭台が添えられた。ここにプラスチック製の透明な容器でつくったロウソク立てを両面テープで接着する。その数は一文字あたり100個以上。一番多いのは「ま」で 300個近くあったろう。
ロウソク立ては、片方の容器の底を少し残してくりぬき、ロウソクを入れてから口と口を合わせて透明なテープでつないだものだ。そうすることで、簡単に着火でき、風で消えることなくロウソクの灯りが「と」「よ」「ま」の3文字になる。美術館の仕事を手がけている志賀大工らしい演出だ。本人はそれを「作品」と呼ぶ。
――3・11から1年の午後4時すぎ。ぶらっと志賀大工の作業場を訪ねたら、イベントの 詰めの作業が行われていた。たちまち夫婦でロウソク立ての底に両面テープを張る仕事を手伝わされた。そのときの「龍灯会」の面々の問わず語りが重かった。淡々としゃべるからこそ、ずしりときた。
「去年の今ごろは……」。テープを張りながら、それぞれが遭遇した体験を語る。1年という時間が、少しは話者に落ち着きをもたらしたか。
大津波が押し寄せ、あたりはがれきの山と化した。ずぶぬれになり、血だらけになって歩いている人がいた。がれきの中で息絶えている人がそこかしこにいた。ある人は――1階がつぶれた家の2階から声をかけられた。「1階にばあちゃんがいんだ」「オレもおふくろを見に行かなくちゃなんねぇ、かんべんな」。ばあちゃんは亡くなっていた。
この人たちは"地獄"を見たのだろう。だから、心から死者・行方不明者の鎮魂を願っている。結束して動いていることがなによりのあかしだ。
キャンドルナイトは午後6時にスタートした。闇に浮かぶ「と」「よ」「ま」の3文字を眺め、小さくゆらめいている灯りのかたまりを見つめていると、気持ちが晴れてきた。「龍灯会」に交じって少しでもキャンドルナイトを手伝うことができた、という思いがそうさせたのかもしれない。死者の魂を鎮めることは生者の魂を奮い立たせることでもあった。
「こんなに明るいんだから、おばちゃん、(海から)出てきな」。そう口にする人もいたそうだ。死者にも、行方不明者にもロウソクの灯りは届いたのだと思う。
キャンドルナイトは午後8時に終わった。その前に帰宅した。と、雨、雷鳴。天からの鎮めの一発だったか、それは。
(タカじい)
タカじい
「出身は阿武隈高地、入身はいわき市」と思い定めているジャーナリスト。 ケツメイシの「ドライブ」と焼酎の「田苑」を愛し、江戸時代後期の俳諧研究と地ネギ(三春ネギ)のルーツ調べが趣味の団塊男です。週末には夏井川渓谷で家庭菜園と山菜・キノコ採りを楽しんでいます。
■ブログ http://iwakiland.blogspot.com/