【置き去りにされた被災地を歩く】第1回・千葉県旭市
「まさか」の時間に押し寄せた巨大津波 恐怖の経験「語り部」となって伝える

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   約1万9000人の死者・行方不明者を出した2011年3月11日の東日本大震災。かつてない規模の津波は、東北の太平洋沿岸地域を中心に未曾有の被害をもたらした。

   震源地から遠く離れた関東地方にも、津波で大打撃を受けた場所がある。千葉県旭市だ。地震発生から2時間半以上が経過してから押し寄せた大津波が、海岸沿いの飯岡地区を飲み込んだ。震災から1年、「隠れた被災地」ともいえる現地をJ-CASTニュースがたずねた。

避難を徹底していたら被害拡大防げたのでは

旭市飯岡に設置された150戸の仮設住宅で、今も暮らす人々がいる
旭市飯岡に設置された150戸の仮設住宅で、今も暮らす人々がいる

   記者は2012年3月8日、旭市の海沿いの道をたどってみた。大通りは一見、復旧が進んでいるように見える。だが、津波で家屋が流された土地は現在、更地となっているところが多く、住宅地は「くしの歯」が抜けたようでさびしさが漂う。

   大量のがれきは1か所にまとめられて、今も処理作業が続く。液状化が起きた地域も少なくない。かつて砂鉄を採掘した跡地が被害に見舞われ、あちこちで道路工事が行われていた。ブロック塀がゆがんだままの家もある。

   市内の飯岡地区に津波の「第1波」が到達したのは、地震発生から約1時間後だ。海岸に近い家々は浸水し、一時避難した人もいた。

   それほど大きな津波ではなく、いったん波が引いて「落ち着いた」ように見えた。病気の母親と同居する飯岡地区社会福祉協議会会長の仲條富夫さん(64)は、自宅の2階にとどまってやり過ごそうとしていた。1960年のチリ地震の津波も経験していた仲條さんは、感覚的に「大丈夫」と判断したのだ。

   住民がホッとして避難場所から家に戻った後の17時26分、高さ7.6メートルの大津波が飯岡地区に襲いかかった。建物や車を次々と破壊。外に出ていた仲條さんも100メートルほど流されたが間一髪、難を逃れたという。妻や息子、母と家族全員無事だったが、自宅兼工場は全壊。以後、家を再建する2011年12月までは避難所、仮設住宅で不自由な生活を強いられた。

   地震発生から2時間半後の「まさか」の事態。沖合で複数の津波が重なったうえに海底の地形も絡んで巨大化したものとみられている。一度は避難したのに、家に戻ったがために巻き込まれた人たち。避難を徹底していたら被害拡大は防げたのではないか――。そんな思いが、今も仲條さんの心に残る。

   今回の教訓を次世代に伝えていこうとの思いから、2011年8月に「いいおか津波語り継ぐ会」を結成した。県内各地に足を運び、津波の経験談を多くの人に披露している。

   「津波警報が出ても、仮に1メートル程度なら『避難するのは大げさじゃないか』と思うかしれません」と仲條さん。自身も今回は「油断」めいた考えがあったことは否定しない。そのうえで

「波が見えてからでは遅い。とにかく、即時避難しなければ身を守れません」

と語気を強め、何度も繰り返した。

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