欠けていた危機感 原発爆発直後の放射線量はこうだった【福島・いわき発】

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   数日前、長男が2011年3月11日から15日までの、福島県内7方部環境放射能測定結果(暫定値)をプリントアウトして持ってきた。外出していたので話はできなかったが、なぜ持ってきたかは察しがついた。


   3月14日午前、福島第一原発3号機の建屋が水素爆発で吹っ飛んだころ、あずかった子ども2人、つまり孫を庭で遊ばせていた。暖かい南風が吹いていた。第一からおよそ40キロ離れているとはいえ、外で遊ばせた無知が罪障感となって今も胸を刺す。親子の確執の原因にもなっていた。そのときの線量はこうだった、という長男からのサインなのだろう。


   それで今度初めて、じっくり当時の線量を見た。いわきの平常値は毎時0.05~0.06マイクロシーベルト。3月11日は、白河市のデータしかない。そこもほぼ平常値だ。


   12日。午後3時半ごろ、1号機の建屋が吹っ飛ぶ。同8時に南相馬市の線量が急上昇し、同9時に20マイクロシーベルトを記録する。


   13日。午前7時にいわきのデータが初めて加わる(県いわき合同庁舎駐車場で測定)。0.08。平常値よりやや高めだが、数値は夜まで0.09~0.07の範囲にあった。この日昼前、近くの平六小へ水をくみに行った。校庭は双葉郡から避難して来た人たちの車で埋まっていた(=写真)。11日夜にはもう避難民が到着していたという。


   いわきの人間は、というより私たちが――だが、そういう異常な状況を目にしながらも、ピンとこなかった。隣郡にある原発がまるで見えていなかった。自治体が違うというだけで生存の危機への想像力が欠けていた。


   14日午前10時=0.09、11時=0.08、正午=0.08。午前11時過ぎに3号機建屋が黒煙を上げて爆発した。いわきの数値はそれ以後も 0.07~0.10の範囲にあった。原発周辺では陸から海へと西風が吹いていたのだろう。罪障感が消えたわけではないが、少し胸のつかえがとれる。


   日付が15日に変わると、いわきの状況が一変する。線量が急に上がり、午前4時にはピークの23.72マイクロシーベルトに達した。以後漸減し、昼前には1マイクロシーベルト台に減る。この日午後1時、2台の車に3家族が乗って白河へと避難を始めた。


   国道49号から須賀川へ抜け、国道6号を南下したが、かえってそちらの線量が高くなっている。最後は西郷村の那須甲子青少年自然の家にたどり着いた。情報がないからただ遠くへ――実際には放射能に追いかけられながらの避難だった。

(タカじい)



タカじい
「出身は阿武隈高地、入身はいわき市」と思い定めているジャーナリスト。 ケツメイシの「ドライブ」と焼酎の「田苑」を愛し、江戸時代後期の俳諧研究と地ネギ(三春ネギ)のルーツ調べが趣味の団塊男です。週末には夏井川渓谷で家庭菜園と山菜・キノコ採りを楽しんでいます。
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