歴史が語る重い教訓 今も残る津波由来の地名【福島・いわき発】

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   本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。


   永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。「四倉・千人塚」で検索すると、小名浜・浄光院のHPに行き着いた。歴史が専門の、いわき地域学會の先輩が住職の依頼で「歴史年表」を書いている。千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。


   その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。


   永正年間の大津波は、四倉町塩木にある耕田寺の縁起に由来するようだ。総合図書館で明治の学者・大須賀筠軒の著した「塩木村誌」を読む。「耕田寺縁起を按スルニ永正年間海嘯アリ近隣諸村併セ民家悉(コトゴト)ク流滅ス。天文ノ頃海嘯猶ホ来る故ニ潮来(シホキ)村ト名ツク後轉ジテ塩木村ニ作(ナ?)ルト云フ」


   翌朝、たまたま仁井田川下流部に実家のある知人がわが家へ来た。4年ぶりの再会である。塩木地区の位置関係を聞いた。塩木は仁井田川河口(仁井田浦=写真)から1キロくらい上流に入った内陸部にあるという。


   昔、そこまで大津波が押し寄せた、つまり潮が来たので「潮来村」と名づけた。寺も流された――塩木が津波由来の地名だったことを、しっかりと胸に刻む。(にしても、永正、天文の大津波は、江戸時代の延宝、元禄の大津波だったらつじつま、いや史実に合うのだが……)


   知人の実家は塩木の下流、国道6号から海側の上仁井田地区にある。3・11では大津波で床下が浸水した。家を解体することに決めたという。


   「千人塚」といい、「潮来村」といい、震災の歴史が語る重い教訓には違いない。四倉地区の災害教育に取り入れられていたら、3・11の被害はどうだったか。救われる人命もあったのではないか――阪神・淡路大震災から17年のきょう(1月17日)、後知恵ながらそんなことを思う。

(タカじい)



タカじい
「出身は阿武隈高地、入身はいわき市」と思い定めているジャーナリスト。 ケツメイシの「ドライブ」と焼酎の「田苑」を愛し、江戸時代後期の俳諧研究と地ネギ(三春ネギ)のルーツ調べが趣味の団塊男です。週末には夏井川渓谷で家庭菜園と山菜・キノコ採りを楽しんでいます。
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