NHKで2011年12月に放送されたドラマ「坂の上の雲」に登場する重要人物のひとり、乃木希典将軍。彼の直筆の書簡が北海道で見つかった。
過去にも乃木書簡はたびたび発見されているが、今回の内容は日露戦争で多くの兵士を死なせた自責の念がつづられているという。
自身も戦闘で長男勝典、次男保典を亡くす
書簡を入手したのは、北海道札幌市にある伊藤書房だ。宛先は、交流のあった元広島市長の佐藤正で、1910年7月6日の消印となっている。乃木はこの時期、学習院院長を務めていた。妻の静子とともに自刃する2年前だ。
どのような内容が書かれているのか。伊藤書房に取材すると、「日露戦争で『天皇陛下の赤子(せきし)』を多く死なせてしまったことへの後悔が、文章からうかがえます」と説明する。
日露戦争で乃木は陸軍司令官を務め、難攻不落と言われたロシアの旅順要塞を激戦の末に陥落させるなど軍功を立てた。しかし代償も大きかった。約6万人の日本兵が戦死し、乃木自身も長男の勝典、次男の保典を亡くした。明治時代は、ひとりの兵でも失うのは上官として大変不名誉なことと位置付けられていたといい、多くの尊い命が戦争で失われたことへの責任を深く胸に刻みつけていたと思われる。
手紙では、乃木家の後継者として養子を迎えるように勧めていた佐藤に対して、その意思がないことを伝え、自身の代で乃木家が断絶することもやむなしとの覚悟を示しているという。
実は乃木は、1877年に西郷隆盛らが起こした西南戦争で政府軍として鎮圧にあたったにもかかわらず、逆に敵兵から軍旗を奪われるという失態をおかしていた。「明治天皇から賜った旗」を失ったことをこの上もなく恥じ、以後大きな心の傷となった。これも、乃木が後継ぎとなる養子を迎えないひとつの理由だったようだ。
伊藤書房によると、書簡は長年付き合いのある顧客から3年前に購入したという。乃木の直筆という「証明」として、この手紙を読んだ陸軍大将の荒木貞夫や、日露戦争の従軍体験をもとに書いた戦記「肉弾」で知られる作家の桜井忠温の署名が入っている。毛筆で書かれた手紙の長さは150センチに及び、淡々としたトーンで書かれている印象だが、「読んでいくと、日露戦争で多くの犠牲者を出した自責の念や、そこから来る乃木の人生観が伝わってくる」そうだ。書簡は1月25日、札幌古書籍商組合のオークションにかけられる。
義弟からの就職あっせん依頼を断る手紙も
乃木自身がしたためた手紙は、これまでにも何度か見つかっている。2011年9月26日の産経新聞は、乃木が香川県に赴任していた1900年8月、就職の世話を頼まれたことに対する返信が発見されたと報じた。乃木の妹の夫からの依頼とみられるが、手紙には乃木が軍関係の仕事のあっせんを考えたものの、読み書きやそろばんなどの必須内容が依頼者には不向きなため見合わせたとの内容だった。
2006年には、岐阜県瑞浪市で乃木直筆の書簡が保管されていたことが分かった。岐阜新聞によると、町村合併する前の恵那郡陶村が乃木に戦勝記念碑と忠魂碑への揮毫を要請、乃木は「大小2つの碑をつくるのは意志に反する」としたうえで記念碑への揮毫のみ応じていた。碑は1911年に建立され、実際に乃木の揮毫が使われたという。
逆に乃木にあてて書かれた手紙が、米国在住の日本人の自宅から出てきたこともある。2000年、米カリフォルニア州サンノゼ郊外在住の在米日本人が、山縣有朋や桂太郎、東郷平八郎ら陸、海軍関係者からのものを中心に88通の書簡を保管していたことが報じられた。日露戦争で大激戦となった「203高地」攻防戦の末、旅順を落とした乃木に、東郷が手紙で称えているものもある。