日露戦争多数の死者に自責の念 乃木大将「養子とらず家断絶」書簡

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義弟からの就職あっせん依頼を断る手紙も

封筒には差出人として「乃木希典」の名が読み取れる(写真提供:伊藤書房)
封筒には差出人として「乃木希典」の名が読み取れる(写真提供:伊藤書房)

   乃木自身がしたためた手紙は、これまでにも何度か見つかっている。2011年9月26日の産経新聞は、乃木が香川県に赴任していた1900年8月、就職の世話を頼まれたことに対する返信が発見されたと報じた。乃木の妹の夫からの依頼とみられるが、手紙には乃木が軍関係の仕事のあっせんを考えたものの、読み書きやそろばんなどの必須内容が依頼者には不向きなため見合わせたとの内容だった。

   2006年には、岐阜県瑞浪市で乃木直筆の書簡が保管されていたことが分かった。岐阜新聞によると、町村合併する前の恵那郡陶村が乃木に戦勝記念碑と忠魂碑への揮毫を要請、乃木は「大小2つの碑をつくるのは意志に反する」としたうえで記念碑への揮毫のみ応じていた。碑は1911年に建立され、実際に乃木の揮毫が使われたという。

   逆に乃木にあてて書かれた手紙が、米国在住の日本人の自宅から出てきたこともある。2000年、米カリフォルニア州サンノゼ郊外在住の在米日本人が、山縣有朋や桂太郎、東郷平八郎ら陸、海軍関係者からのものを中心に88通の書簡を保管していたことが報じられた。日露戦争で大激戦となった「203高地」攻防戦の末、旅順を落とした乃木に、東郷が手紙で称えているものもある。

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