どうしても巨人に入りたい、と東海大の菅野智之投手がとりあえず「浪人」の道を選んだ。2011年11月21日、ドラフト1位に指名した日本ハムに対し、入団拒否宣言をしたのである。この決断は過去の例をみてもっとも厳しい選択といっていい。
拒否宣言の記者会見で菅野は「小さい頃からの夢(巨人選手)を実現したい」とその理由を語り「来年のドラフトを待つ」と決意を示した。浪人して1年を過ごす、いうのである。
これまで、日本ハム拒否の場合、1)社会人野球に進む 2)米球界に行く 3)浪人する-などの進路が取りざたされたが、結果的に浪人する道を選んだ。その気持ちは分からないわけではないが、投手というポジションを考えると、むしろ「賭け」である。
投手の生命である肩は練習不足になると、瞬く間に衰える。そうなると、当然のごとく球威は落ち、一番いいときのピッチングを取り戻すのは至難の業だ。無理をすれば支障を起こす。浪人となると、練習環境をどう整えるのか、指導者はどうするのか、などの問題が出てくる。巨人の助けを得るわけにはいかないし、東海大でも試合には出られない。
大騒ぎで巨人入りした江川のプロ生命はわずか9年
1位指名投手で入団を拒否した有名な例として江川卓がいる。法大時代、東京六大学リーグで史上2位にあたる通算47勝を挙げ、1977年にクラウンライター・ライオンズ(現西武)から指名を受けた。一浪した後、いわゆる「空白の一日」を突き、すったもんだの末に巨人のユニホームを着た。浪人中、ロサンゼルスやアラスカで練習、試合でも投げ、それなりに調整していた。
しかし、巨人入団の1年目は9勝10敗という不本意なものだった。「浪人中の練習不足は明らかだった」というのが当時の巨人コーチの指摘。大学からすぐプロ入りしていれば、15勝は間違いなく挙げただろう。そのくらい図抜けた逸材だった。3年目に20勝したものの、その後は故障もあって苦しい投球を続けた。結局、9年間しか投げられず、通算135勝で終わった。
「あれだけ大騒ぎ(江川事件)して獲得したのに、たった9年でサヨナラか。巨人はどれほど犠牲を払ったのか」と球団幹部が肩を落とした短期引退だった。肩が元に戻らないどころか、無理をして負担をかけたといわれている。「まともなら通算300勝はした投手だった」と多くの専門家はいまだに浪人後遺症を惜しむ。
もう一人、小池秀郎という左腕投手がいた。亜大のエースで90年のドラフト会議でロッテから1位指名を受けたが、入団拒否。社会人野球に一時避難し、92年に近鉄バファローズから1位指名された。入団したものの、10シーズンで51勝。大学時代にマークした通算394三振(当時の最多記録)のキレはすっかり消えていた。プロ入りしたときには峠を越えていたのである。