1992年に26歳の若さで急逝した歌手、尾崎豊さんが残した「遺書」2通の全文を月刊誌「文藝春秋十二月号」が掲載している。尾崎さんが生前、夫人に心中を迫ったエピソードなども記事で紹介されている。
同誌発売は2011年11月10日。尾崎さんは、1980年代に「ティーンエイジャーのカリスマ」として絶大な人気を誇り、「ファン葬」には4万人超が参列した。尾崎さんの急逝をめぐっては、後に他殺説が浮上し、遺族を巻き込む裁判にもなり大きな関心を集めた。
「先日からずっと死にたいと思っていました」
「遺書」の全文公開と記事を担当したのは、ジャーナリストの加賀孝英氏だ。他殺説が浮上した1994年当時の取材で遺族から入手した「遺書」2通や取材結果について約20ページを使って紹介している。
加賀氏は記事の中で、「尾崎豊の死は『自殺』だった」とあらためて「他殺説」を否定。尾崎さんは当時、「身体はボロボロ」で、「自分は間もなく死ぬということ」を「間違いなく知っていた」と指摘している。
「他殺説」の否定の意味を強調するため、かぎかっこを使った『自殺』という表現を用いたようだ。
尾崎さんが死亡した日に「肌身離さず」もっていたセカンドバッグから見つかった「遺書」には、
「先日からずっと死にたいと思っていました」「さようなら 私は夢見ます」
などの言葉が並んでいる。日付は書かれていない。
また、死後1か月経って、尾崎さんの母の遺影のわきで見つかった「遺書」には夫人や長男への愛情が綴られており、最後の1行は、
「皆の言うことをよく聞いて共に幸せになって下さい」
と長男へ呼びかけている。
加賀氏は94年当時、「遺書」のごく一部の引用を含む記事を週刊誌で発表しているが、今回、「遺書」全文と「17年間、封印し続けてきた物語」を紹介している。
「遺書」の全文公開をこれまで見送っていた理由については、尾崎さんの夫人から、長男が尾崎さんの死を理解できるようになってからにして欲しい、との要望があったことなどを挙げている。
夫人に心中を迫っていた?
記事によると尾崎さんは生前、夫人に心中を迫ったことがある。尾崎さんが死亡する20日前の92年4月5日、尾崎さんが「俺と一緒に死んでくれぇ」などと夫人に迫ったが、長男のことを夫人が口にすると、尾崎さんは「その場にへたりこんだ」。
また加賀氏は、「他殺説」にもあらためて詳細に反論している。「他殺説」は、94年に浮上し、テレビのワイドショーなどを巻き込む騒ぎとなった。尾崎さん死去から2年後のことだ。
尾崎さんが死亡したのは92年4月25日。泥酔して全裸で民家庭先に横たわっているのを発見され、病院に運ばれたが同日中に亡くなった。ほどなく警察が発表した死因は、「極度の飲酒による肺水腫」。当時から覚醒剤の使用は指摘されていたが、死因とは結びつけられていなかった。
94年に尾崎さんの「死体検案書」コピーが流出して報じられた。尾崎さんの体にあった傷や「致死量の2.64倍の覚醒剤」などのキーワードを結びつけ、中には尾崎さんの遺族に殺人の疑いをかける夕刊紙や週刊誌の記事も出た。
関心の高まりを受け、警視庁に尾崎さんの死亡に関する再捜査を求める嘆願書が10万人超の署名を添えて提示される騒ぎにもなった。警察は解決済みだとして動きは見せなかった。
遺族に疑いをかけた「他殺説」記事については裁判になり、東京地裁は2000年2月、遺族への名誉毀損を認め、フリージャーナリストに500万円の支払いなどを命じる判決を下した。02年の上告棄却で遺族の勝訴が確定した。
2011年4月にもCD発売
今回の「遺書」全文掲載の予告記事を受け、インターネットのツイッターや2ちゃんねるなどには多くの人が反応を寄せた。
「大反響ありそう」と興奮気味の人や、尾崎さんの生前のアルバムの図柄と「遺書」とを関連付けて理解しようとする意見もあった。一方、「他殺説」を主張し、「遺書」や「自殺」を否定するかきこみも少なからずみられた。
尾崎さんを巡っては、死後何度もリバイバル・ブームが起き、新たなファンも生まれていると指摘されてきた。2011年に入っても4月に「I LOVE YOU バラードベスト」(ソニー・ミュージック)の尾崎さんのCDが発売された。
また、尾崎さんが死亡した日に発見された場所の民家は、通称「尾崎ハウス」として多くのファンらが訪れ続けた。住人が一室を開放していたのだ。2011年10月には、老朽化から立て直されることになり取り壊され、改めて注目を集めた。
最近訪問者は減っていたようだが、取り壊しの予定が報じられると1日十数人が訪れるようになっていたという。立て直し後には、「尾崎ハウス」として一室を開放する予定はないようだ。