ふるさとに戻れなかった伊良部 引退後に不安持つ現役選手にも衝撃

富士フイルムが開発した糖の吸収を抑えるサプリが500円+税で

   160キロの剛速球で知られた伊良部秀輝がロサンゼルスで亡くなった。首をつっていた姿で発見された。2011年7月28日(現地)のことだった。まだ42歳の若さ。ふるさとの日本に戻れなかった事情が絡んでいたのだろうか。

「金銭で悩んでいたとは聞いていない。生活には困っていなかったはず…」

   伊良部を知る野球人はそう言った。訃報はたちまち日本球界に広まり、驚きのコメントが流れた。その多くは「球の速さ」を振り返るもので、人間伊良部に関するものは、まるで避けているかのようにほとんどなかった。

   激しい性格はトラブルを度々引き起こした。腕っぷしに自信があったのだろう、グラウンドでは相手にすごむことが何度もあり、「要警戒選手」だった。マスメディアとのいさかいも度重なった。夜の街での武勇伝もあった。

日本で野球に携わりたかったが、活躍の場無く

   1997年、ロッテからヤンキースに移ったときの強引な手法がのちに響いた。

「当時のロッテは伊良部を重要な戦力としていた。それなのに伊良部は我を通した。日本の他球団はそのやり方に批判的で、日本球界を敵に回してしまった」(元ロッテ関係者)

   伊良部はイチローのように穏便に移籍ができなかった。ヤンキースは「日本最高の速球投手」として迎え入れたが、最後は観客のブーイングに対してツバを吐く伊良部をスタインブレナー・オーナーは「太ったヒキガエル」とののしった。これを機に伊良部は下り坂を転げ落ちていった。

   大リーグから星野監督時代の阪神に移ったが、往年の力は既に失っていて戦力にならなかった。独立リーグと契約したものの、ろくに投げもしないまま退団。すべて中途半端だった。

「伊良部は日本に戻り、野球に携わっていたかったようです。しかし、日本球界は指導者として受け入れる考えはなく、メディアも評論家や解説者として必要としませんでした。日本で活躍の場がなかった、という状況でした」

   伊良部を取材してきた野球記者はそう解説する。ふるさと日本に戻る場所がなかった、というのである。現在、元プロ野球選手の仕事は少ない。引退後に不安を持っている選手は多い。伊良部の死はそんな彼らに、剛速球ならぬショックを投げつけたといえるだろう。

(敬称略 スポーツジャーナリスト・菅谷 齊)

姉妹サイト