人生初の海の異変 言い伝えは本当だった【岩手・大槌発】

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証言【3.11東日本大震災】三浦勝さん(66)

(聞き手:ゆいっこ花巻支部 増子義久)


花が趣味の三浦さん。避難所の花壇の水やりが日課になっている=大槌町の安渡小学校避難所で
花が趣味の三浦さん。避難所の花壇の水やりが日課になっている=大槌町の安渡小学校避難所で

   あの日、午前2時ごろ、1トン未満の持ち船(勝栄丸)を操って一人で漁に出た。漁場は大槌の港から30分ほどの沖合だ。波も風もないベタなぎ。イカの切り身を餌にした底縄(そこなわ)を600本ほど投下した。深さはざっと120メートル。ねらいはソイとドンコだ。こんな穏やかな海も珍しい。だから、縄ぶち(投下)も1時間足らず終わった。あとは「果報は寝て待て」というわけさ。


   仮眠を取って、午前5時半ごろから縄を揚げはじめた。こんなことは長い漁師生活でも初めてのこと。50センチ以上のソイがスイスイと海面から顔を見せるじゃないか。ソイというやつは普段は海底の根(ね)の陰に隠れている。だから、餌に食い付いたとしても根がかりして糸が切られてしまうことが多い。それがどうしたことか。ほんとにスイスイだ。大物が100匹以上、それにドンコも200匹以上。1時間ちょっとでこれだけの大漁は初めての経験だった。


   オレは市場を通さないでずっと、行商で売りさばいてきた。この日はご祝儀相場ということでドンコは5匹でたったの300円。ソイと合わせた売り上げは普段の倍のざっと1万5千円にもなった。11時ごろには売り切れてしまったので、網などの道具を取りに船に戻ろうと家を出た途端、地面が割れるような激しい揺れ。とっさに「津波が来る」と直感し、携帯ラジオだけをもって避難した。せっかくの売上金も家もすべてが津波もろともだ。


   でも、オレはあれ以来ずっと考え続けている。魚たちは地震と津波を事前に予知したんではないのかと。あの日、漁をしていたのはオレを含めて数人だった。海の上での実際の体験だから絶対に間違いない。異変を予知した魚たちが巣から飛び出し、そうしたら目の前にイカの切り身がぶら下がっていた。それにパクッと食い付いた。かつて経験したことのない大漁の理由はこうとしか説明できないんだよ。


   海との付き合いは船大工が最初だ。地元の中学を卒業してすぐ、弟子入りした。昭和35年のチリ地震津波の時も漁船が大きな被害を受けた。数えきれないほどの修理を手がけ、おかげで腕を磨くことができた。北海道・根室では昭和40年代、密漁船が露助(ロシア側)に拿捕(だほ)されたり、追突される事件が相次いだ。この時も長期間、修理に駆り出された。船大工なら自前の船を作れということで、その後はモーター船や木造の和船づくりにも精を出した。


   船大工から本格的な漁師になったのは30ちょっと前だったな。南米やニュージーランドなど世界の海を股にかけて飛び回った。でも、年を取ってからはもっぱら前浜が守備範囲になった。一匹オオカミだから、いつも一人乗船だ。漁場も年中、同じ場所。自分であきれるほどの頑固もんなんだよ。で、あの日、大漁だった場所は普段なら20センチ前後のソイが何本か揚がる程度。それが腰を抜かすような大漁にこっちの方がびっくりしてしまった。


   昔から地震や津波の前兆は「大漁」だと言われてきた。そのことは年寄りからも聞かされてきたが、今までは半信半疑だった。今回の体験でそれがウソでないことを身をもって知った。津波も恐ろしいが、とんでもない恵みを与えてくれるのも海なんだよ。毎朝4時、海のそばを散歩するのを日課にしている。海に向かって深呼吸をすると、背中がざわざわする。大物のソイを引き揚げた時の感触がまだ、この手に残っている。海の男の帰る所は海しかないのさ。



「ゆいっこ」は民間有志による復興支援組織です。被災住民を受け入れる内陸部の後方支援グループとして、救援物資やボランティアの受け入れ、身の回りのお世話、被災地との連絡調整、傾聴など精神面のケアなど行政を補完する役割を担っていきたいと考えています。
岩手県北上市に本部を置き、盛岡、花巻など内陸部の主要都市に順次、支部組織を設置する予定です。私たちはお互いの顔が見える息の長い支援を目指しています。もう、いても立ってもいられない───そんな思いを抱く多くの人々の支援参加をお待ちしています。
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