福島第一原発事故を暗示した梅棹忠夫の「暗黒のかなた」
「震災と日本人」連載19

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   人類の文明のあり方を過去から未来へと見通すならば、それはけっしてバラ色のものではない―。梅棹忠夫が今の事態を予言したような、きわめてラディカル(過激・根源的)な洞察がテレビ番組で紹介されていた。(「暗黒のかなたの光明~文明学者梅棹忠夫がみた未来」NHK教育2011年6月5日)

   かつて梅棹は「人類の未来」という本を構想していたが、結局、その本は完成されなかった。そこで描こうとした未来があまりに悲惨だったからだと言われている。構想された目次の最終章は「暗黒」とあり、そこには「破滅」という言葉も見られた。

   が、その最後は「光明」という言葉で結ばれている。梅棹がかろうじて語ろうとした「暗黒のかなたの光明」とは何か、それを考えるのが番組の趣旨であった。

   現代文明は、なぜ「暗黒」を招いてしまうのか。梅棹はその根本的原因を現代文明を進歩させる原動力となっている科学の本質に見ていた。

   「人間にとって、科学とは何か。これはわたしはやっぱり業(ごう)だと思っております。人間はのろわれた存在で科学も人間の業みたいなものだからやるなといってもやらないわけにはゆかない」(梅棹忠夫著「未来社会と生きがい」1970年)。

   人間の知的欲求・欲望が際限なく前に前にと進もうとするので、やがて環境や制御可能なキャパシティを超えてしまう。もともと科学者の知的好奇心の発見であった原子力が今まさしくそうであるように。

   では、われわれはどうすればいいのか。

理性だけではない英知のありかた

   梅棹は、目次の構想に「理性対英知」という謎の言葉を残している。

   番組では、「理性」だけではない「英知」なるありかたを対することに、その答えを、つまり「光明」への可能性を読みとろうと、それぞれの識者が解説していた。とくに宗教学者の山折哲雄さんが、自分の欲望とは何かということをつきつめることなしにはこの問題は解けないと、キリスト教と仏教の譬えを使って説明されたのと、ノンフィクション作家・山根一眞さんが、理性とは、役所や企業組織、ビジネスの世界における理論・理屈を基本にするいわゆる左脳的な思考にあるのに対して、英知とは、心、情念、ひらめき、夢といったいわゆる右脳的な思考のことではないか、いま理性だけで進められている世界にも、こうした右脳的な発想を取り入れていくことが新しい可能性を開くのではないか、と説明されていたのが面白かった。

   村上春樹さんが、「カタルーニャ国際賞」のスピーチで、反原発への新しい倫理・規範を、「無常(mujo)という移ろいゆく儚い世界」の認識の上で語っていた 。梅棹の「理性対英知」というヒントをそこに重ねて考えるならば、理性とは、人間の「はかる」(「計る」「量る」「諮る「図る」「策る」)いとなみのことであり、英知とは、かならずしも「はかる」ことのできない価値や意味をも考え味わうことである。「はか‐ない」とは、「はかる」ことができない、「はかどる」ことだけではない、かけがえのないものを感受することができる感情でもある。

   村上さんのスピーチには、蛍をめぐっての、こういう繊細な一節がある。「……目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安 心を見出すのです」。

   「理性対英知」は二者択一の問題ではない。「はかる」ことを人間はやめることはできない。しかし、「はかなさ」の感受性によって、「はかる」ことのできない何ものかを考え味わうことができるのも人間である。(倫理学者・竹内整一)

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