村上春樹 無常(mujo)から始まるスピーチの倫理観
「震災と日本人」連載18

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   2011年6月10日、作家の村上春樹はスペインの「カタルーニャ国際賞」を受賞し、「非現実的な夢想家として」というスピーチを行った。主題は福島の原発事故についてである。

   <唯一の原爆被爆国である我々は、どこまでも核に対する「ノー」を叫び続けるべきであった。それが、広島・長崎の犠牲者に対する我々の責任のとり方、戦後の倫理・規範の基本だったはずなのに、「効率」「便宜」という「現実」の前に、それらを敗北させてしまった。このたびの原発事故で損なわれた倫理・規範は簡単に修復できないが、自分は作家として、そこに生き生きとした新しい物語を立ち上げたい。夢を見ることを恐れてはならない。「効率」や「便宜」という名前を持つ「現実」に追いつかせてはならない。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならない>(スピーチの概要)

   村上は、こうした明確なメッセージを、日本語の無常(mujo)という言葉の紹介から始め、最後にも、あらためてこう確認している。

 
「最初にも述べましたように、我々は、無常(mujo)という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです」。

我々を原発に駆り立てた今の現実「効率社会」

   スピーチでは、反原発への倫理・規範の再生が、「無常(mujo)という移ろいゆく儚い世界」の認識にはさまれながら語られている。そもそも村上作品には初期から、「無から生じたものがもとの場所に戻った。それだけのことさ」(「1973年のピンボール」)といったような無常観が基調低音として流れていた。

   それはつまり、「はかない」という感情である。「はかない」とは、「はかどる」「はかる」の「はか」が「ない」こと、つまり、「つとめても結果をたしかに手に入れられない、所期の結実がない意」が基本である(「岩波古語辞典」)。が、こうした、あるいはネガティブな感情においてこそ感じられてくる大切なものがある。「滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性」とは、そのことである。

   科学技術の基本的な発想は、ものごとをみな「はかり」、数値化し、そのことによって、さらに便利に、さらに効率的に「はかどり」結果を手に入れようとするところにある。そして、それは科学技術にとどまらず、経済や文化、社会のシステム、生活のあり方のすみずみまで支配・貫徹するようになってきた。我々を原発に駆り立てた今の「現実」がそれである。

    村上がいう、そうであってはならない新しい倫理・規範の基本には、そうした「はかり」「はかどる」結果だけを求めるのではない、「はかる」ことのできない、今ここにあることのかけがえのなさを取り戻せということがあるように思う。

    一言縷言すれば、私が大学生であった頃、評論家の竹中労がこう言っていたことを思い出した。――あなたが映画館で映画を見て、登場人物のかっこいい振舞に思わず拍手をしたくなったことがあったとする、が、やがて映画館を出て、ああ、でもあれはスクリーン上のこと、現実はそうはいかないよなあ、と思ったとする。だが、その場合、大事なことは、かっこいいと思わず拍手をしたいと思ったあなたこそが本物であり、現実に戻ったと思ったあなたが偽物なのだ、と。それもまた、「非現実的な夢想家として」ということのひとつなのだろう。(倫理学者・竹内整一)

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