震災と日本人 倫理学者 竹内整一
連載(15) 「死者の魂」位牌を大切にした被災者たちの気持ち

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「ペットボトルの残り少なき水をもて位牌洗ひぬ瓦礫の中に」(いわき市 吉野紀子)

   朝日新聞「歌壇」(2011年5月16日)で、4人のうち3人の選者に選ばれた歌である。

   今回の震災では、位牌だけを持って逃げた人やわざわざ位牌を取りに走った人、位牌が探し当てられず悔やんでいた人たちの様子が、テレビなどでもよく取り上げられた。福島の一時帰宅でも、「多くの方が位牌や家族の写真を持ち出していた。買えないものが『宝』で、生きていく支えになっているのだ。『もしかしたら戻れないかもしれない』という気持ちも入り交じってのことだと思うと胸が痛んだ」(朝日新聞・声欄2011年5月19日)。

   位牌とは、死者の霊を祀るためにその戒名が記された木の札である。写真や思い出の品々もまた、死者となった者の魂を弔い悼むための大事なたづきである。瓦礫の中からそれらを捜し出し、きれいに洗って手もとに置いておこうとするのは、あらためて死者の魂とともに生きようとすることである。つまり、そうすることによって死者の魂を浮かびあがらせ、また生者みずからの魂をも生きさせようとすることである。その意味でそれらは「宝」なのである。生者の生が、いかに死者の魂に支えられているものであるかということを示しているように思う。

金子大栄の言葉「花びらは散っても花は散らない」

   3月に「花びらは散る 花は散らない」(角川選書)を上梓した。この本は、仏教思想家・金子大栄の「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ」という言葉をめぐり、生者と死者との、「とむらう」「いたむ」、「還り来る」といった関係性や、「色即是空 空即是色」という仏教論理を考えたものである。

   哲学者の西田幾多郎は、愛娘を失ったとき、「人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれが親にとっては堪え難き苦痛である。……何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。……この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである」と述べている(「思索と体験」)。あるいは、作家の天童荒太さんは、自作「悼む人」で、「ぼくは、亡くなった人を、ほかの人とは代えられない唯一の存在として覚えておきたいんです。それを〈悼む〉と呼んでいます」と書いている。

   ことは、こうしたきわめて個的なとりかえのきかない関係性の問題である。ただ、このたびには、そのことが、2万3850人(東日本大震災死者・行方不明者数、警視庁まとめ 2011年5月26日現在)も折り重なったということである。

   「とむらい」「いたむ」人がいなければ、そこでは「花」は咲く場所を失う。「人は二度死ぬ」と言われる。肉体的に死んだときと、それからその人を「とむらい」「いたむ」人がいなくなったときである。「二度目」の死において「花」や「魂」は、その輪郭を失っていくということであろう。

   そうであれば、家族ともども皆流されてしまった人たち、あるいは、無縁社会といわれる現代社会で誰にも気づかれずに死んでしまった人たちはどうするのだろうか。その死が判明したその場その場で居合わせた人々が手を合わせることであろうし、さきに内山節さんや田口ランディさんらが呼びかけを行ったアノニマス(匿名の集団)の哀悼ということも続けられるべきことだろう。

   たとえば、能という古典芸能が「とむらい」の大きな装置であるように、何十年、何百年たとうと、無念に死なざるをえなかった死者の思いは、誰かが問い尋ねることがあるならば、そこではまた「花」咲くということがあるのである。


++ 竹内整一プロフィール
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。
1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』を新刊した。


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