証言【3.11東日本大震災】―遠藤友治(78)ヨツ子(73)さん夫妻
(聞き手:ゆいっこ花巻支部 増子義久)
わしは長い漁師生活で両足を痛めてしまったし、女房も3年前に右足が不自由になった。この足のおかげで二人とも命が助かったんではないかと…。おかげで通帳のひとつも持ち出すことはできなかったが、もし五体満足だったら、あれもこれもと欲が出て結局は逃げ遅れてしまったと思う。この足じゃ、這ってでも一目散に逃げるしかないと、それしか頭になかったな。
あの日は朝暗いうちから、約2キロ沖合に仕掛けていたカレイの刺し網を引き上げに行った。真ガレイが30枚ばかり刺さっていた。去年の今ごろに比べて倍近くはあったな。零細漁師にとっては珍しいほどの大漁だ。代わりの網を沈め、昼飯を食いに家に戻った。船は名前を取って「友丸」。2トン足らずの小船で、乗るのは相棒と2人だけ。2隻あったが、どこに流されてしまったのか…。
仕掛けの準備をしようと、岸壁の倉庫(材料置場)に戻った時、とんでもない大きな奴が「ドカ~ン」と来た。電柱の脇から泥水が1メートル以上も噴き上げていた。大急ぎで自転車を漕いで家に引き返し、「津波が来る。早く逃げろ」と女房を急き立てた。"火事場の馬鹿力"って言うんだろうな、二人で木の根につかまり、草をむしりながら、高台へ這って上がった。
安全な鉄道線路に辿り着いた時、大槌川の川底はすっかり干上がっていた。やがて、白波が大きな口をあけ、めくり返りながら、陸(おか)に向かってきた。わらわら、びりびり、メリメリ…。家々が異様な音を立てて次々に倒れていった。わしはチリ津波(昭和35年5月21日)の時は北洋のはえ縄漁船に乗っていた。この時は時化(しけ)と重なり、3人の漁船員が海に投げ出されて死んだ。津波の恐ろしさは体に染みついていたわけだ。
(吉村昭の『三陸海岸大津波』によると、明治29年と昭和8年の津波の際、沿岸各地は前例を見ない豊漁に見舞われたという。今回も福島県浪江町沖でアイナメが豊漁だったなどの報道が伝えられている。この点を問いただすと…)わしには良くは分からねえけど、確かにカレイは余計揚がった。そう言われればなあ…。とにかく海を甘く見たらいかん。わしはちょっとした時化の時も漁は休むことにしている。家は土台を残すだけで跡形もなく消えてしまったが、目の前の海には魚たちがきっと戻ってきてくれる。わしはそう信じているよ。
もう一度、船を浮かべたい。でも、もう年だしなあ。
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