震災と日本人 倫理学者 竹内整一 
連載(14) 科学過信による「想定外」と「はかりしれないこと」

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   このたびの震災では、「想定外」とか「想定以上」といった言葉がくりかえし使われてきたし、今もなお使われている。たしかにマグニチュード9.0は「未曾有」の規模であったかもしれないが、すこし災害の歴史をふりかえってみれば、自然の猛威はつねに「想定外」の暴力をもって、われわれを襲って来ていた。関東大震災でも伊勢湾台風でも阪神・淡路大震災でも、すべて、いわば「想定外」であったからこそ、何千、何万という犠牲者が出たのである。

   にもかかわらず、今回「想定外」という言葉がこれだけ使われたのは、それだけ今のわれわれが、知らず知らずのうちに、現代文明の力を、とくに高度に発達させてきた科学の力をいかに過信してきたかということを示している。「安全神話」とは、ほんとうは「はかりしれない」自然の働きやこの世のさまざまな出来事を、みな「はかりうる」もの、「はからいうる」ものと想定したところに形成されてきたものである。

   「はかる」という言葉について少し詮索しておきたい。「はかる」の「はか」とは、もともと「イネやカヤなどを植え、また、刈ろうと予定した範囲や量」のことで(「はかどる」「はかがいく」の「はか」でもある)、この言葉には、きわめて多様な意味がふくまれている。漢字で見るとわかりやすい。

「人間の如き、無知無力見る影もなき・・・」福沢諭吉の言葉

   まず、ものごとを計量するという「計る」「量る」「測る」がある。つぎに、そのようにして計量したものをもとに、あれこれ調整・案配・推測したりする「衡る」「料る」「忖る」や、「会議にはかる」の「諮る」がある。そして、そうしたものをまとめ、何ごとかをもくろみ企てるという「図る」「画る」「策る」、さらには「謀る」がある。

   つまり「はかる」ということは、人がある意図や計画をもって生活していくうえでは、かならず求められる基本的な営みということができる。その意味で文明とは、人間がさまざまに「はかって」きた歴史の蓄積でもあるが、その「はかる」ことが、アンバランスなまでに突出して求められてきたのが、近現代の文明、とりわけ科学技術的な考え方なのである。

   科学技術の基本的な発想は、あらゆるものごとを「はかり」にかけて計量し数値化し、そのことによって、人生や世の中を、さらに便利に、さらに安全に営もうとするところにある。そこでは、ひたすら明瞭に「はかる」こと、効率的に「はか」どることが求められてきた。そして、それは科学技術にとどまらず、やがて、経済や文化、社会の仕組みのあり方にまで、「はか」第一主義が支配・貫徹するようになってきたのである。

   が、このたびの震災で、自然とは、ついぞ、われわれの「はかる」営みなどに飼い慣らされるようなものではないということが思い知らされた。宇宙・自然の大いなる働きから見れば「人間の如き、無知無力見る影もなきうじむし蛆虫同様の小動物」にすぎないとは、近代日本にサイエンスという「学問のすすめ」を説いた福沢諭吉の人間観である。福沢は、むしろこうした人間把握から人間の尊さを引き出しているのであり、今あらためてわれわれは、近代日本の初発にあった、こうした人間認識の基本を見直すべきように思う。

   一言縷言。いうまでもないが、以上のことは、「はかる」営みそのものを否定しているわけではない。

   「甘い想定浮き彫り」との見出しで、「最悪の状況を想定して、復旧のための対策を講じるのは、今回のような重大事故を収束させる際の鉄則だ。東電のこれまでの事故の想定はかなり甘いと言わざるを得ない」という批判記事が載っていた(「朝日新聞」2011年5月17日)。東電の「甘い想定」は、「想定外」を振り回してきたのと、結局は同じ想像力を欠落させた姿勢の裏表である。原発もまた、人間が作り出したものでありながら、「はかりしれない」何ものなのかもしれない。が、今はともあれ、そんなことは言っていられない。現代文明と現代科学のすべてをかけて、何としてもきちんと「はかりきる」ほかはない。政治もまた、原発対応に総力を結集するよう強引に「はかる」べきである。


++ 竹内整一プロフィール
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。
1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』を新刊した。


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