震災と日本人 倫理学者 竹内整一
連載(13) 「人災」という言い方だけですまされるのか

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   最近の震災報道には、「人災」という言葉があふれている。福島原発は人災、地震直後の情報不足は人災、二次災害としての人災、自粛・風評被害は人災、コミュニケーション不足が引き起こした人災、「人災ばらまき」政権の悲劇・・・。

   自然災害そのものでなく、人間が介在して、その不注意や怠慢、不手際によって引き起こされたものとしての「計画停電」や、過度の自粛や風評被害などをはじめ、今とりわけこの言葉が集中して向けられているのは、福島原発事故についてである。

   発端がいかに未曾有の大地震・大津波による冷却電源喪失であったとしても、その後の対応策として、ただちに海水注入などきちんと対処していれば現在の危機状況は防げたはずだとするならば、(ましてやその対応の遅れが、廃炉をためらったからだとか、機能管理・判断系統が混乱していたからだということならば)、それはまさに字義どおり人災といわざるをえないだろう。

   人災であるかぎり責任が生ずるし、詳細な検証が必要になってくるが、それとともに、「原子力発電」という技術自体が、人間が作り出しながら最終的には人間には手に負えない災難をもたらすかもしれないという意味で「人災」だ、というとらえ方も出てくるかもしれない。が、ともあれ、そうであればあるほど、今はできるかぎりの人間の知恵や技術を総集して、収束させるべく全力で対処する以外にない。

寺田寅彦の「奇妙な回りくどい結論」をかみしめ、批判すべきは批判

   以上のことを幾重にも確認したうえで、ここに来て突出して使われ出してきた「人災」という言い方の中に、私は、ある種の違和感を感じている。

   このコラムでもくりかえし、生き物としての人間は、生老病死をはじめとする「おのずから」の働きと、意志や願い、努力や技術による「みずから」の営みとが、せめぎ合う「あわい(あいだ)」に生き、死んでいくものだということを述べてきた。

   それは洋の東西を問わない普遍的な人間のあり方ではあるが、とりわけ日本人の場合、不可避・不可抗の「おのずから」の働きと、懸命で、かつ、しなやかな「みずから」の営みの「あわい」に独自の思想文化を築いてきたと考えているし、今こそ、そのような祖先からの精神伝統をふまえて、この困難にも立ち向かいうると考えている。

   が、あふれかえる「人災だ」という言い方の中には、ややもすれば、今度の災難は人間が招いた災難であるがゆえに、その責めは誰かが負うべきであり、ということは、その責めによって失われたものが補填・回復しうるのだといったようなニュアンスを感じさせるものがある。そのことは復旧・復興の基本的な方向にも大きく関わってくるように思う。象徴的にいえば、ことは単純に、防潮堤をどれだけ高くする事によって守ることができたかといった問題ではないはずである。

   「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増す」と警告していた寺田寅彦は、こうも指摘している。

「あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるものだという考えをもう一ぺんひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗な方則の支配を受けて不可抗なものであるという、奇妙な回りくどい結論に到達しなければならないことになるかもしれない。」(「災難雑考」昭和10年)

   われわれは、あらためて、この「奇妙な回りくどい結論」をかみしめる必要があるように思う。そのうえでこそ、人災は人災としてきちんと批判することができるように思う。


++プロフィル 竹内整一
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』を新刊した。


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