「言い方は変かも知れませんが、うれしかったです。これであきらめることができました」。南三陸町の避難所でボランティアをしながら、津波で失った母の遺体を探していた群馬の女性が、やっと遺体確認ができたときの言葉である(「津波が家族を奪った」NHK総合2011年4月17日13時5分~)。
震災から20日ほど経った4月1日から3日間、陸海空3自衛隊と在日米軍は、計2万5千人態勢で、航空機約120機、艦艇約65隻を一斉に出動させて、岩手・宮城・福島の3県の沿岸部約600キロメートルで行方不明者の一斉捜索を行った。この捜索では、3日間で78遺体が収容されたと報じている(「日米一斉操作が終了、78遺体収容」日本経済新聞2011年4月4日)。原発や被災地支援のニュースの中で、ややもすれば見過ごされがちな報道であったが、こうした大規模なオペレーションの背景にも、この群馬の女性のような切なる思いの集積があったように思う。
「弔う(とむらう)」とは、「訪う(とむらう)」ことである。訪れて問うということ、訪問することが基本で、そのことにおいて、死者の魂の冥福を祈ることである。また、「悼む」とは、もともと、何らかの原因で自分の体や心が「痛む」こと、また「傷む」ことと同じであり、人の死に接して、それが自分に「いたく」感じられ、それを死者への思いとして嘆き悲しむことである。群馬の女性は、死者としての母を訪い再会し、弔い悼むことができたのであり、そうした営みにおいて、そこにある種の安堵と諦めがもたらされたことは、女性の言葉からもうかがい知ることができる。
悼み弔い、死者の魂の冥福を祈る
悼み弔うことは、必ずしも遺体としての死者に直接向き合えずとも、また、必ずしも近親者ならずとも、死者の思いを問い尋ねるという仕方でだれでもすることができる。
恐かったでしょうね、苦しかっただろうな、来ない救助を待ちながら何を思っていたでしょうか、やりたいこと、言いたいこと、まだまだいっぱいあったんでしょうね……。
能という日本を代表する芸能は、このような悼みや弔いを主題として表現する装置であったともいえる。その多くの演目は、生前どうにもならない悲しみや苦しみを抱いたまま死んで亡霊となった者がシテ(主人公)であり、そうしたシテのところに、ワキ(脇役)が訪ねて行くことによって、シテの残された思いが聴かれ、再現されるというスタイルとなっている。ワキが悼み弔うことにおいて、その死者の思いは観客らにあらためて理解され、記憶されるのである。
われわれもまた、それぞれのあり方において、それぞれの仕方において、そうした思いを馳せながら、悼み弔い、死者の魂の冥福を祈ることができるように思う。2011年4月19日現在、行方不明者数は1万3600人を超えている。
ちょうど、友人の哲学者・内山節さんから「東日本大震災で亡くなった人々を、みんなで供養しよう」という呼びかけがあった。内山さんは、労働論、時間論、自然論など、独自の思想を展開し続けると同時に、NPO法人「森づくりフォーラム」などの活動でも知られている。呼びかけは、4月24日(2011年)日曜日の正午に被災地の方角を向いて手を合わせる、仏壇にお線香を上げるなど、自分なりの方法で、というものである。亡くなられた方々を十分に追悼することなく、未来を語ることにためらいを感じる、と内山さんは言う。私も私なりの仕方で参加したい。
竹内整一
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』を新刊した。