震災と日本人 倫理学者 竹内整一
連載(8) 自然は災禍をもたらす「厳父」であると同時に、「慈母の慈」をもつ

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   先日、ある雑誌の対談で、漫画家のサトウサンペイさんにお会いした。そのとき、サトウさんは、自分の信仰している神さまは、もともと「祟り神(たたりがみ」であるが、われわれが誠をつくして信じ祈り願えば、むしろその威力をもって助けてくれる神さまになるとおっしゃっていて興味深かった。

   寺田寅彦が、自然は災禍をもたらす「厳父」であると同時に、「慈母の慈」をもった働きだと言っていたことと重なってくる。

   今年の三社祭や神田祭は中止になったが、もともと神社の祭りは、「みこしを上下左右に担いだり、荒々しく揺さぶる「魂(たま)振り」は神様の霊威を高め、豊作や豊漁、疫病の退散を実現させ、氏子の団結を高める意味がある」という(産経新聞「祭り 自粛一辺倒に変化」2011年4月8日)の記事は、その意味で強い説得力があった。今こそ、大いなる「おのずから」の働きを受けとり直すことにおいて、「みずから」を奮い立たせるべきではないだろうか。

この世の出来事は、「おのずから」と「みずから」の「あわい」で起きている

   いまの自粛ムードは、みんながそうしているからそうするといった「おのずから」の意味になっている。本来、自粛とは「みずから」の「いたみ」の感覚によるものである。

   「おのずから」と「みずから」という言葉遣いの微妙さは、日本人の思想文化を考えるうえで、プラス・マイナスを含めて、きわめて大切な視点をはらんでいる。

   われわれはしばしば、「今度結婚することになりました」とか「就職することになりました」という言い方をする。そうした表現には、いかに当人「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても、それはある「おのずから」の働きでそう「なったのだ」という受けとめがあることを示している。

   そこには、ややもすれば、無責任な成り行き主義になってしまう傾向が十分ある。もしその結婚がうまく行かず離婚するという事態を迎えたとしても、それもまた、「今度離婚することになりました」と、当事者不在の意味合いで語られてしまうだろう。

   しかし、それらがすべて無責任な成り行き主義で語られているのかというと、必ずしもそうではない。例えば、どんなに「みずから」努力しても、結婚する相手に出会うということは別事である。自分を超えた、自分の手のおよばない不思議な「おのずから」の働き、――縁とか偶然とか、まわりの手助けとか、そういうもののなかで、人は人に出会うのであるし、また出会った後にも、そうした、さまざまな働きや出来事のさきで、やっと結婚という事態にいたるのである。「結婚することになりました」とは、そうした感受性の表現である。

   人生やこの世のもろもろの出来事というのは、単に「おのずから」の働きだけではなく、また、かといって、単に「みずから」の営みだけでもない。まさにその両方のせめぎ合う「あわい(あいだ)」においてこそ起きているのだ、という祖先の大事な感受性と知恵をそこに読みとることができるように思う。


##プロフィル 竹内整一
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。日本倫理学会会長。1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』(角川選書)を新刊した。

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