誰が命令したのでもなく、自分で判断したのでもなく、ただみんながそうしているからそうするといった日本人のある種の傾向を、山本七平は「空気」と名付けた(「空気の研究」)。いままた、この「空気」という得体のしれないものが、デマ・風評を増幅させ、買い占めに走らせ、ゆえなき差別を助長させている。「不謹慎」、「無配慮」、「非国民」といった言葉をともなった「自粛ムード」もそのひとつである。
震災後の、こうしたいわゆる「自粛モード」や「自粛ムード」に疑問を呈する記事をいくつか読んだ。「祭り 自粛一辺倒に変化」(産経新聞2011年4月8日)、「自粛モード 誰のため?」(毎日新聞2011年4月8日)、「『自粛自粛自粛』で日本が滅びないか!」(週刊新潮2011年4月7日号)。
亡くなった人々を「悼み」、被災した人々を「痛む」思いは、われわれのほとんどが共有しているだろうし、また、共有し続けるべきことであって、それはそれぞれの行動として表現されるべきことであろう。
「悼む」とは、人の死に「みずから」の心が「いたむ」ことの表明であり、被災者に同情するとは、被災者の「いたみ」を「みずから」の「いたみ」に重ねることである。「いたましい」、あるいは「いたわしい」という倫理感情の現れである。自粛ということも、そのひとつの表現といえるだろう。
自粛の語義は、「自分から進んで行ないや態度をつつしむこと」(日本国語大辞典)である。「粛」とは「おそれつつしむこと」であり、「みずから」の「いたみ」の感覚に発するものであって、それぞれがそれぞれの場で表現していくべきことがらである。
実は、自粛という言葉は、「大漢和辞典」には出てこない。日本語辞典としてもっとも大きい「日本国語大辞典」には、永井荷風の「断腸亭日乗」(1940年)からの引例がある。とすると、この言葉は、そうとうに新しい和製漢字のようである。
永井荷風は「自粛自粛といひて余り窮屈にせずともよし」
しかし、ややもすれば、この言葉の「自」は「おのずから」と受けとめられてしまう傾向をもっている。「自」は、日本語では、「みずから」とも「おのずから」とも読むことができるが、各紙・誌が報ずるような「モード」あるいは「ムード」としての自粛とは、まさに「おのずから」のもの、何となく、いつの間に、みんながそうしているから自粛することに「なった」という様相のものであろう。「空気」とはそのこと言っている。
繰り返しておくと、「粛」することは、すぐれて「みずから」の「いたみ」の感覚に発するものであって、それぞれがそれぞれの場で表現していくべきことがらである。人は「いたみ」ながらも、花見も花火も祭りもパチンコもすることができる。みんながそうしているからそうするといった「自粛ムード」の蔓延は、経済疲弊とか停滞といった次元を超えて、われわれの精神に根深い空虚・弛緩をもたらしている。
ちなみに、さきの永井荷風の「断腸亭日乗」からの引用は、「自粛自粛といひて余り窮屈にせずともよし」である。太平洋戦争直前の昭和15年の日記である。
竹内整一
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。日本倫理学会会長。1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』(角川選書)を新刊した。