東北関東大震災で壊滅的な被害となった宮城県南三陸町。避難民のための仮設住宅候補地が発表されたが、その場所は海岸から800メートルしか離れておらず、津波の被害の衝撃を抱えたままの町民から激しい非難が出る騒動になった。2日後に建設地は隣の登米市に変更になったのだが、何があったのか。
南三陸町の震災前の人口は約1万8000人で約5360世帯。それが今回の震災で2011年3月28日現在、400人が死亡、820人が行方不明、9700人が避難者になっている。死亡、行方不明者の数字は今後大幅に増える見通しだ。
「津波を思い出してしまう」「なぜ高台に作らないのか」
宮城県は南三陸町の仮設住宅50戸の建設地を3月24日に発表した。同町志津川の清水小学校跡地だとわかると、町の避難民者から「津波を思い出してしまう」「怖くて眠れない」「なぜ高台に作らないのか」といった激しい抗議の声が挙がった。清水小は3年前に閉校し、今回の震災では津波にのまれた。
なぜここが建設地に決まったのか。宮城県庁によれば、仮設住宅の建設候補地5ヵ所を南三陸町から提案された。その中で同町が特に希望したのが清水小跡地だったのだという。仮設住宅を一刻も早く建設しなければならない状況から、町の希望を入れて発表した、と説明する。
しかし、発表した当日、県庁の担当者が建設予定地を訪れたところ、生活インフラが壊滅しているだけでなく、海に近く、津波の不安も避難者にあることを知った。
「ここに建設するのは無理だとわかりました。残りの建築候補地4ヵ所も見ましたが、インフラが完全に壊れていて、南三陸町には建設は難しいと判断しました」
と県庁の担当者は打ち明ける。なぜ清水小を候補地にしたのかについては、どうしても町の中に仮設住宅が欲しかったのではないか、と県庁の担当者は見る。混乱の中で、町が情報の収集ができなかったことも影響しているのかもしれない。