3月17日、再開された仙台朝市の様子がテレビ報道されていた。
被災に遭った人々が、野菜や豆腐、魚などの生鮮品を買いに来ている。若い女性にマイクが向けられると、「こうして買えて食べられるのは幸せですよね」と、顔をほころばせた。被災地で久しぶりに開かれた朝市で聞けた、この「しあわせ」という言葉の語感が、その笑顔とともに、私にはとても貴重に感じられた。
「しあわせ」とは、もともと「為合はす・仕合わす」という言葉からきたものである。つまり、まずは「みずから」の努力によって、「うまく合うようにする」という意味の言葉であった。が、やがてそれが、「しあわせ」という名詞として使われてくると、「めぐりあわせること、運、なりゆき、いきさつ」といった意味合いの言葉となってくる。
そこには、「しあわせ」とは、われわれ「みずから」の力だけではない、それを超えた働きに大きく左右されるものだという受けとめ方を見てとることができる。
当初、この言葉は、「よきしあわせ」とか「悪しきしあわせ」と、両様に使われてきたものが、やがて「よきしあわせ」をとりわけて「しあわせ」と限定して用いられるようになったものである。すでに中世の終わりごろには、現在の使われ方と同じ、こうした用法で使われていた。
「みずから」努力し可能にしたことでも「出来た」という
「しあわせ」とは、何かが成就したり、あるいは可能になったりするという事態であるが、われわれは、「みずから」決断し努力したことでも「なった」と表現したり(例えば、「今度結婚することになった」とか「就職することになった」とか)、「みずから」努力し可能にしたことでも「出来た」=「出(い)で来た」と表現してきたのであり、この「しあわせ」という言葉にも、この世のもろもろの出来事は、「みずから」の努力と、「おのずから」の働きの「あわい」においてあるのだという発想を見いだすことができる。
日本人の考える「しあわせ」とは、まずはわれわれ自身が「為合はす」ものとして「みずから」の努力を基本としながら、なおそれを超えた「おのずから」の不慮・不測の働きを待ち、受けとめることとの「あわい」に招来される事態だと受けとめられてきたということである。
それは、例えば、中国人の友人からの年賀状では必ず書かれている「万事如意」(すべてが思い通りになるように)とは、少し違ったところでの「幸福」感である。
このつらい状況下での、あの笑顔のさきにこそ、よき「しあわせ」があるだろうことを心から祈りたい。
##プロフィル 竹内整一
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。最新刊は『花びらは散る 花は散らない』。