「主婦年金徳政令」は厚生労働大臣が知らない間に始まっていた――この問題は大臣の首が飛びかねない事態になっている。細川律夫・厚労相は、前厚労相の長妻昭氏に「責任転嫁」しようとしているのか、それとも、単に不勉強で無責任な大臣なのか。いずれにせよ、年金行政のお寒い状況があらためて浮き彫りになった形だ。
「前大臣から私への引き継ぎ書の中には、いわゆる運用3号(主婦年金救済策)の件はなかった」。2011年3月8日、細川厚労相は衆院厚労委でこう説明した。長妻氏から引き継ぎを受けていなかった、だから私は当初知らなかった、と言いたいようだ。
「大臣が『知らなかった』とは何事か」
細川厚労相はさらに、事務方から受けた「当面の課題に関する説明」の中にも同救済策は含まれていなかったとも話している。
細川厚労相は3月4日、「当時は知らなかった」と国会で答弁した。「当時」とは、10年12月15日、厚労省の課長通知で問題の主婦年金救済策の開始が指示されたときのことを指す。実施の運用は翌1月1日からだ。
細川氏が厚労相になったのは10年9月で、11年1月の内閣改造で留任した。課長通知が出た際には大臣だった。
くだんの年金救済策は、朝日新聞が2月2日付の社説で「正直者が損をする」仕組みだ、と指摘し激しく見直しを求めるなどして注目された。
これほどの問題を「大臣が『知らなかった』とは何事か」と野党は細川氏の責任を追及している。辞任した前原誠司外相に続く「辞任ドミノ」を指摘する声も出ている。
それにしてもなぜ、細川厚労相は「知らなかった」のか。同省の栄畑潤・年金局長は3月7日、10年3月に決まった基本方針に従い通知したとして、「(細川)大臣の決裁は頂戴していない」と参院で述べた。10年3月当時大臣だった長妻氏が基本方針を決めた救済策なので、改めての大臣判断は不要と考えたということのようだ。また、前大臣の方針を踏襲しただけであって、課長通知で役人が「独走」したわけではない、とも言いたげだ。
ちなみに10年3月時点では、細川氏は厚労副大臣だった。もっとも「労働担当の副大臣だった」そうだ。
菅首相は続投させる方針
細川厚労相は、「厚生労働の行政全般の責任は私が有している」と話し、10年12月の課長通達の責任について認めている。しかし、「外形的責任」はあるが、実質的な責任は引き継をしなかった前任大臣や官僚にある、と言外に言いたげではある。
毎日新聞(3月8日付朝刊)によると、細川厚労相が年金救済策について知ったのは、1月下旬、総務省の内山晃政務官が「このままでは大変な問題になる」と細川厚労相に見直しを迫ったときだったという。
ちなみに、年金救済策については、10年12月31日付朝刊で朝日新聞が報じ、1月18日付夕刊で読売新聞が図付きで救済策の仕組みを説明するなどしていた。
また、厚労省のサイトには10年3月29日にあった「年金記録回復委員会」の議事要旨や資料「記録問題への対応策(未定稿)」が公開され、誰でも読むことができる。主婦年金救済策に該当する箇所をみてみると、「対応策」では、「過去の期間については、保険料の時効が到来していない過去2年間を除き、現状のままとする」と、すでに救済の概要が示されている。議事要旨にも委員からの発言として「不公平感がある」などの批判も載っている。
細川厚労相は、仮に引き継ぎ時に長妻氏から説明を受けていたら、どう対処していたのだろうか。
菅直人首相は3月7日、救済策見直しについて「厚労相を中心に(課長通達ではなく)法改正によって方向性を出そうと進めている」と話し、細川厚労相を続投させる考えを示した。細川厚労相の進退問題よりも新たな年金救済策を策定することの方が重要だ、という指摘がある一方、予算関連法案の可決にめどがたたない菅直人首相の「進退問題」の解決の方が先だという声もある。